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(第14回)2013年和敬塾42年西寮卒 広島旅行始末記

(第14回)2013年和敬塾42年西寮卒 広島旅行始末記

11/12(火)13(水)広島~宮島~厳島~江田島~呉

( 注:敬称略   文責:川淵 )

 

1112 11:50前後に東京、大阪、九州から馳せ参じた面々がJR広島駅に集合した。

本来は四国、名古屋からも駆けつけるはずだが、四国は急遽欠席(藤代)し、

名古屋(山本)は旅館に直行した為、広島駅に揃ったのは

東京組:三井夫妻・川崎・鈴木・石井・羽原・田中・平田

浜松組:大竹

大阪組:中井・吉村・山田・川淵夫妻

九州組:渕川・相沢・中村             以上17名であった。(全員は18名。)

 

今回の企画立案は、広島県出身の石井と隣の岡山県出身の羽原の二人が中心になって進めてくれ、事前に何度も下見を繰り返してくれたと聞いている。翌13日夕方、先乗りの山本を加えた18名は呉駅(平田は墓参りに四国へ)並びに広島駅で東西に分かれ解散したが、石井・羽原お二人のお蔭で、古希を迎えた(る)我々には素晴らしい印象に残る旅行であったことを初めに申しあげておく。

以下、川崎幹事長の指名で川淵が「始末記」をしたためる事になったが、何しろもう古希を迎える年齢になった私が少ない記憶を頼りに書くため、以前のようにぽんぽんと言葉も浮かばず、文中に”奈良の熊”というような不穏当な言葉使いや記憶違い、誤字・脱字や順番間違いなど多々あると思いますが、そこは大目に願います。三井会長、川崎幹事長の応援もあり始末記は完成した。   

以下が全員集合写真。

集合写真

 

「旧江田島海軍兵学校」の見学を終えて(13.11/13)後ろにレンガ建てが見える玄関前。 

 

 

■三井会長、川崎幹事長のお声がかりで始まった旅行会も今回で14回を迎え、常連メンバーに新規メンバーも入り乱れ、なかなか味のある「42年西寮友の会」に仕上がってきた。

西寮同期は46名であるが、故人6人、住所不明3名となり、現在37名が現役ということで、参加者16名は略略50%の出席率といえる。

旅の途中で例の通り携帯電話による参加もあり、よりにぎやかになったのは言うまでもない。

唯一九州から不参加であった近藤直(未だ不参加)は「まだ現役で働いているが、次回は必ず行く?」とのことを言っていたし、ハワイにいる堀内欽一からの「ALOHA!!電話は丁度呉港に向かう最中の船中であったが元気な声での参加であった。まるで日本にいるが如く聞こえたが、本当にあのハワイなので長電話はまずいと思い「そろそろ切るぞ」と言ったが、堀内からは「大丈夫だ。これは会社の電話だから・・・・」ということで数人に電話は回った。残念ながら、北海道の栃木、南、長野の木内、東京の藤井、園部、名古屋の吉田、安村、たちの声は聴けなかった。それにしても、もう6人も逝ってしまったのか。(皆早すぎるぞ! 斉藤・時田・本多・三浦・喜多・中川・・・・・・合掌!)

 

■11/12昼食  広島駅ビル「酔心」 広島名物”アナゴ飯”を食す。

初めてのことだと思うが、昼食時にビールの一本も出なかった。確かに誰からも声もかからなかった。

それ程、皆胃腸が弱ってきたのか、それとも遠慮深くなったのか、女性がいたからかどうかは分からない。

久闊を叙して(ともがら)牡蠣を食う   三井利忠

(三井会長の影の声:「酒の一本でも欲しかったなあ。初めてだね。」川淵「そうだね。はい!」)

 

■昼食後タクシーで原爆記念資料館(平和公園)に

資料館を初めての人も、十数年ぶりの人も居たが、何とも言えない複雑な感覚であった。三井会長からは「45年ぶりの広島原爆資料館ではやはり涙を禁じ得ませんでした。」とのメールを貰いました。やはり、原爆は駄目だし、それをほうふつとさせる原発は減らす方向が正しいのだろう。小泉元首相が言うように「即刻止めるべきだ」というのはどうかとも思うが、二度とこのような不幸はごめんだ。

 

平和公園前での集合写真

・平和公園前で集合(山本は未だいない)

 

 

■船で平和公園→宮島に   今晩の旅館は「みや離宮」と言います。(ひろしま世界遺産航路にて)

野生の鹿と一緒に旅館の仲居さんが港までお出迎えです。宴会の前に厳島神社を参拝しました。何度も台風で被害がありましたが、釘止めしていない床板の為、何度でも生まれ変われるようです。

 

33広島旅行始末記

 

1本の根っこから9本の松という珍しいのも見たし、能舞台5重の塔も”厳島神社“を盛り上げていました。名物「もみじ饅頭」を買い求めて、土産物店を覗き歩きました。

 

5広島旅行始末記

宮島はしゃもじが有名です。数mの大しゃもじが展示されていました。宿が”夫婦円満””長寿”のしゃもじをプレゼントしてくれました。我が家は2本とも貰いました。夫婦円満だし両親を見ていたら長寿になりそうだから1本で良いと断ったが、奈良の熊が・・失礼!・・中井に「君たちには2本が必要だ」と渡された。

 

食事前に夕やみ迫る港に集合。

満潮の為歩けないので、船で厳島神社の鳥居の下を巡るという幹事の趣向はなかなか乙なものであった。

ライトアップされているため、なかなか荘厳な雰囲気がしたものでした。

 

広島旅行始末記8

 

広島旅行始末記9

 

これはほゞ満潮の時、干潮の時は神社まで参道が出来る。それにしても立派な鳥居だ。

厳島神社の鳥居を背景に一同集合

 

広島旅行始末記10

 

冬潮の海よりくぐる大鳥居    川崎清明

■いよいよ宴会です。

 

隣では、カラオケをやっているのかうるさいほどの宴会ですが、我々は流石に大人の宴会です。

川崎幹事長の開会宣言、幹事の予定説明に続き、川淵の発声で取りあえず乾杯。

 

 

そのあと、三井42年西寮同期会会長が今回の旅行の石井幹事・羽原幹事への感謝の言葉と、久しぶりの友が多く出席したことを素直に感謝し、続けて「もう我々の年代になると色々体にきしみも出ているので、体のことは出来るだけ言わず、前向きに明るく一人一人に近況挨拶をしてもらいます」ということで、次々に仲間は挨拶をしたのです。勿論、ご婦人方も同じです。久しぶりの渕川の嬉しそうな顔。満面笑みです。

 

宴会終了後は501号室に集合して二次会。皆子供に戻っているようです。(下記写真)

久しぶりの友とは、奈良の熊さんの横にいる、相沢・平田・中村・渕川の4人です。

広島旅行始末記13

 

 

(順不同)  皆が何を話していたのか?忘れてしまった。

 

山田:相変わらずチャチャを入れるタイミングが旨い。盛り上がりには欠かせない人物。オートバイ事故の

後遺症も大分癒えたのか一緒に全行程を歩いた。大黒正宗健在!

大竹:親子で歯医者を継続中。親父は手を出さないでと言われている。皆に掛川茶をお土産に配ってくれた。お客様第一!お客様は神様!80才まで20本!と言って歯医者に誘う名人。

渕川:親子で税理事務所経営。給料は息子からもらっている。奈良の熊が税務署の調査についてアレコレ質問していたが、私は熊の税務については詳しくないと。それも確かにそのとおり。渕川らしい。

平田:何度かの病を克服。墓参りに四国(愛媛)へ。髭と頭の艶に往年のプレイボーイの面影があるとかないとか。もう役には立てませんとは本人の弁。

田中:和敬ニューイヤーコンサート(1月12日)に命を懸け成功を期している。この人はいつも何かに命を懸けているので手術ばかりしている。がんの治験はベテラン。登山には命を懸けないように。

相沢:下関から登場。いつもニコニコしているこの人ベビーフエイスに相当皺が増え、段々生まれたての赤

子に戻って行くようだ。

山本:週に数回テニス。奥様とハイキング。たまに囲碁と元気。ライバル本多を失いすっかり口数が少なくなった。

三井:俳句、郷土史研究、畑仕事に没頭。ゴルフからは片足を洗った。“おつまみは無いの?”と忙しい奥様の外出先にメールをするのが玉にきず。内助の功がなければどうなるの?

三井夫人:西宮(新婚のお嬢様)~町田~広島と忙しいのです。夫の秘書の他、夫の重い荷物持ちも兼ねる力持ちの賢妻。ソフト部の理事。

石井:名門広島大付属高校の出身ということで今回の旅の全体監修を務める。高校の同級生のコネで船の臨時便まで手配。月何回かの泊りがけの麻雀賭博が生きがい。

羽原:隣県の岡山出身ということで今回の旅行の裏方として金集めに徹する。今は、和敬囲碁と和敬ゴルフ(長生会)の幹事として活躍。

中井:「ペディベア」「熊ちゃん」と本人はいうが「奈良の羆(ヒグマ)」も年を重ねて確かに可愛くなった。奥様孝行でハワイに行ったが、ハワイにも熊が出ると噂になった。ハワイ在住の堀内が「あれは日本から遊びに来ただけで直ぐに帰るから心配するな!」と動揺を抑えるのに苦労したとの噂もある。

川淵夫人:「貴方また和敬塾?」と言っているが結構楽しそう。なぜみんな奥様を連れてこないの?亭主が退職後大きな身体で家を占拠し、大きな声を一日中聞かされて、私の身にもなって下さいと訴えていた。皆頷いて、同情しきりであった。

川淵:奥さんの荷物まで持つ優しい夫?奥様孝行しなくてはいけない理由があるのかないのか?家庭に欠

かせないかどうかは別として、同期会には絶対欠かせない人物であることは間違いない。奥様どう

か同期会に免じて、お心を広くお取扱いを宜しくお願いします。カメラマンご苦労様でした。

吉村:野外の料理の達人であると同時にパソコンの達人でもある。この間の奈良の柿狩りでも8kgの肉を料理。焼きそば、チャーハンもお手の物。鳴物入りのメールで送られてくる年賀状が楽しみである。

学生時代から最も向上(成長)した同期と言われる。

川崎:和敬句の会、「汀俳句会」、ワンゲルOB会、職場OB会などで多忙。

これまで胃を切ったり、山から落ちたりしたその都度面倒を見てもらった奥様が何やら難しい病気に

罹り、相当動揺したらしい。漸く奥様の病状も落ち着いて同期会旅行に参加できた。

鈴木:会社は順調だが、あと1~2年で辞めるつもりだと。新宮へ実家の空気入れ替えとミカン狩りに行っ

ているようだ。アーチェリーの様には行かないだろうが、胡弓の腕も大分上達したようなので、来年

の同期会は鈴木の胡弓演奏をバックに中華料理もいいなという声もあった。

中村:兎も角毎日忙しい。OB会、町内会、児童交通指導、老人会・・・・・・。面倒見が良いのか、罪滅ぼし

かは知らないが、どうも地元では欠かせない人物のようだ。

選挙に出る準備と言う噂もある。中村町長、万歳!

1113   江田島 旧「海軍兵学校」訪問(海上自衛隊第1技術学校)(広島港~小用港)

 

新人の行進      

新人の行進

 

この場所は半沢直樹に出たらしい  

この場所は半沢直樹に出たらしい

 

裏の古鷹山に兵学校生徒は訓練で20分で山頂まで駆け上がるらしい。(とても無理だ)            

裏の古鷹山に兵学校生徒は訓練で20分で山頂まで駆け上がるらしい。(とても無理だ)

 

幹事は名物“海軍カレー”を昼食に準備をしてくれていた。建屋や学校内の雰囲気は当時のまま(当時を知らないが)残っている様だ。96歳の川淵の父親(海軍少佐、巡洋艦“三隈”に乗っていた)に「兵学校を訪問して来たよ」と写真を見せたら、最近弱っていた親父殿が急に大声で兵学校校歌を歌いだしたので驚いた。起きられない親父が立ち上がるのではないかと思った程だ。ちょうど我々が和敬塾で青春を謳歌していた (塾歌を歌っていた) 年齢の時に、親父たちは戦争に駆り立てられていたのだろうか。江田島は以前は人口

2万人であったが、今では9千人に減ったと我々と同じタクシーの運転手が話していた。生まれるよりも死ぬ人の方が多いのだとも。元気で旅行ができる皆さんがうらやましいよ。島には同期が10人だと。

 

江田島の戦の記憶石蕗の花  三井利忠

上は東郷平八郎、山本五十六などを祀った教育参考館(戦災資料講堂)前で整列した隊員。種々の写真や軍服、遺書などは以前靖国神社の資料館で感じたのと同じ思いを持ったのは私だけではないだろう。

勝海舟の書をはじめとして旧海軍の貴重な資料や特攻隊員の遺書などデリケートなものも数多く展示されているため その敬意・慰霊の意味を込めて 脱帽、撮影禁止とされていました。

 

提督の眼のひかり寒牡丹   三井利忠

 

「大講堂」。1917年(大正6年)に造られた

 

大砲(おおずつ)の輝き黒し冬茜    三井利忠

 

英国から購入したレンガを縦横に組み合わせた、幹部候補生学校庁舎の横の長さは140m以上ある。

 幹部候補生学校庁舎

江田島港(小用港)から呉港“大和ミュージアム”へ

 

幹事が配布した案内には 宮島9:00 広島港9:24 小用9:46とあった。三井夫人と川淵夫人が

船中で会話をしているのが聞こえてきた。

(“わざわざ 22分も小用時間をそんなに取らなくてもいいのにね。書くのもねえ!”)というものだった。私も最初はそう思ったが、小用とは「こよう」という港の名前であった。別の意味で確かに小用(しょうよう)という言葉もあるので、そこを間違えたのだった。・・・・こういう話を聞くのも楽しい旅だ。

呉港を降りたらそこがミュージアムだった。

 

”大和“の縮小版。

隣の潜水艦は中にも入れた。(これは1年前まで実際に稼働していたようだ。一見の価値あり。)

■大和ミュージアム見学の後、JR呉駅まで歩き

駅前で解散となった。

今回の西寮旅行は、広島駅集合(アナゴ飯)

平和公園~原爆資料館~宮島~厳島神社

海軍カレー~江田島兵学校―大和ミュージアム

JR~タクシー~高速船~観光船

色々と乗継、夜中まで楽しい会話をし、土産物屋を

覗き、各自帰路に着いた。筆者は広島の牡蠣を食べなかった為に、広島で皆に別れ、牡蠣の土手鍋と

焼牡蠣を食してから家路に着きました。

第15回は四国にするか、九州にするかはまだ不明ですが、ぜひそれまで健康に留意をし次回も沢山の友が振るって参加をされることを祈願して始末記を投了させて戴きます。

11月24日 川淵秀和

 

■三井会長一言

初めて訪れた宮島と江田島。感激しました。陸上交通では長時間かかる移動のはずですが、普段は温和な石井君が地元の友人に強談判(?)してくれたお蔭か、臨時便の船が仕立てられスムーズに時間が節約できました。改めて感謝申し上げます。

原爆資料館は45年振りですが、胸苦しくなる思いは一緒でした。

江田島から若くして戦火に散った若者の背筋を伸ばした遺書には思わずこみ上げるものがありました。

こうして集まれるのも幹事さんのお蔭です。石井・羽原の両幹事さんに参加者を代表して感謝申し上げます。

赤鳥居を寫し静もる冬の潮   三井利忠

■川崎事務局長一言

宮島は島全体が神籬(ひもろぎ)で、その末端に神社が立てられたのが厳島神社のようだ。従って俗世界から神域に入るには海からしかなく海に鳥居が立てられたらしい。11月は神無月と言われ、日本の全ての神様は出雲に集合していて、厳島神社の神も留守だったと思われるが、留守の神前に頼み事をしたご仁もいるかも。ちょっとふざけて一句

二拍手のあとの一礼神の留守   川崎清明

翌日、海軍兵学校跡に行った。当時日本の若者の最も優秀な者が海軍兵学校に行き、落第した者が東大・京大に行ったという。教育参考館には海軍兵学校の校長でもあった井上成美海軍大将の写真があった。徒に兵の供給を迫る中央の要請に井上校長は半端な者を送ることは出来ない。ここを卒業した者は後に必ず役に立つように厳しく鍛えるとして「野火焼いて尽くさず春風吹いてまた生ず」言って拒絶したという。

その一徹さを批判する者も多いが、正に教育者としての至言ではないか。

井上海軍大将と川淵兄のお父上である川淵少尉を最近見た鮟鱇の面構えに重ね合わせて失礼ながら一句

来世も鮟鱇(あんこう)たらむ面構え   川崎清明  

      

  完

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