12/15(金)第4回和敬金融会を開催しました

第4回 和敬金融会を開催

第4回となる和敬金融会を開催しました。
今回が初参加となるH13南の笠原さん、H16北の谷前さん、H30東卒予定の中村さんを迎えて、首都圏の和敬金融マンが集いました。

忘年会を兼ねての今回は、築地の佐賀昇(ちゃんこ屋)での開催となりました。

 

徐々にメンバーも増えてきて、今回は現役塾生の中村さんの出席もありました。
中村さんが来春就職予定の会社先輩もおり、入社後の動きについてレクチャーを受けていたようです。
みなさま、ありがとうございました!!

 

     

  • 参加者
    笠原さん(H13南)、福田さん(H15北)、谷前さん(H16北)、一柳さん(H26北)、半田さん(H27北)、山崎さん(H28北)、前田さん(H29北)、中村さん(H30東予定)、古閑(H15北)

 

次回は、年明けを予定しています。ぜひご参加下さい。
新幹線トラブルで残念ながら間に合わなかった上村さん(H15北)も次回はぜひ。

 

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塾友会本部 事務局長
首都圏支部 幹事長
H16北 古閑 善丈

S53北寮 京都旅行

S53北寮 京都旅行

ここ数年は東京での食事会が中心だったが、多くのメンバーが集まりやすいようにと、今年は京都旅行を実施することになり、1月28日(土)~29日(日)に13名が出席して賑やかな旅行になった。

菅居さん(S53西)のお世話で、伏見稲荷大社の解説付きプライベートツアー、千本鳥居、一の峰参拝などを存分に楽しませていただいた上に、宿泊先も菅井さんに洛中の老舗旅館「旅庵花月別邸花伝」を予約いただき、落ち着いた空間、天然温泉、京懐石料理を存分に堪能した。

北は山形、南は福岡からの参加があり、卒寮以来の再会となる者もいて、大いに盛り上がった。

各自の近況報告では、質問、コメントが続出して、それだけで宴会時間が終了してしまうハプニングもあったが、皆な近況だけでは済まず、卒寮後の人生を語ることになったのはやむを得ない。

宿泊組はもちろん部屋で飲み直し。和敬塾時代の裸の付き合いが一気に再現した瞬間でもあり、還暦を過ぎたメンバーの多種多様な人生に触れて、懐かしみつつも、大いに刺激を受けた二日間であった。

次は東北での開催という話なども出たが、ゆっくり相談して決めていこう。この仲間たちとの交流が、これからの人生を多彩で豊かなものにしてくれることと実感し、改めて和敬塾に感謝した旅行であった。

 

 

 

参加者は次の通り。(五十音順、敬称略)
東北から: 高橋
関東から: 池田、梅津、斎藤、白石、田中、古久保、松本、吉海、渡辺
関西から: 澤西、千木良
九州から: 中村

『塾友会・全国囲碁大会』のご案内

『塾友会・全国囲碁大会』のご案内

永世名人位争奪
≡第24回和敬塾囲碁名人戦≡

共催:塾友会本部・ 首都圏支部

■日   時    平成29年7月2日(日) 午前9:45集合(受付、組合せ)
棋戦 10:00~16:00  表彰式・懇親会 16:30~17:30

■会   場    日本棋院・有楽町囲碁センター
住所:(〒103-0028)東京都千代田区有楽町2-10-1 交通会館9階
JR有楽町駅 京橋口、中央口正面のビル
TEL:03-6269-9133

■参加資格    塾友・塾生・塾職員・塾関係者及びそのご家族などで主催者承認の者

■競技方法    【名 人 戦】オール互戦
【A クラス】有段者・ハンデ戦
【B クラス】級位者・ハンデ戦

■表   彰    理事長杯(持ち回り、レプリカ付き)、塾友会長杯、首都圏支部長杯
※他・賞品の寄付歓迎。

■永世名人  名人戦にて通算5回または連続3回優勝者を永世名人として表彰し、永世名人杯を授与。
*現在、中西靖直6段(40北)が通算4回の最多優勝者です。

■競技終了後打ち上げの清宴を行います。

■7,000円(当日、会場にて申し受け致します)
会場費、昼食代、清宴代、賞品代など一切含みます。

■お申込み    囲碁趣味塾友の方々に別途郵送にてご案内します。
また、同案内のない方も参加ご希望の方は以下の大会実行委員宛ご連絡下さい。

◇大会実行委員
[塾友会本部・囲碁幹事]
桑原信二(46北)

〔首都圏支部・囲碁幹事〕
西村正彦(36西)
小澤 拓(h2北)

以  上

日本語表記の過去・現在・未来 (番外編)

 「言葉はひろがる」 ~鶴見俊輔の訃報に寄せて~

平成16年北寮卒 谷前 憩介

 

本稿の連載も気がつけば開始以来2年近くの年月が経過、そのわりにはテーマの追求は遅々として進まず、このままでは現代のキラキラネーム氾濫の時代はおろか大正昭和期に突入するにも何年かかるか、といった有り様である。当初の予定では明治時代を4回くらいで終わらせる程度に考えていたのだが、調べるにつけ、明治時代とうものが良くも悪くも日本語の在り方も含む日本のその後について決定的な影響を及ぼした事実に思いが至り、「あれも書かねば」「いやこれも…」と自分の至らなさゆえにトピックの安易な取捨選択ができなくなってしまった。

…泣き言はともかく、本来、今回は大日本帝国憲法や二葉亭四迷らの初期の口語体文学、明治普通文、日清戦争関連の話をするべきであった所、(何年後になるかは不明であったが)いずれは触れてみたいと思っていたとある人物の訃報がこの7月24日に公表されたので、急遽予定を変えて件の人物…哲学者の鶴見俊輔(1922―2015)の仕事に関する話を、主に“ことば”“日本語”という観点から記したいと思う。

戦後日本を代表する知識人の一人であった鶴見俊輔のしごとぶりは多岐にわたっており、とても自分ごときが紹介しきれるものではない。ハーバード大学仕込みのプラグマティズム(実際主義)の哲学者として、左翼リベラル寄りの政治運動家(ベ平連・九条の会など)として、または歌謡曲からテレビ番組・子供向けの漫画まで(お気に入りの先品は「寄生獣」!)を縦横無尽に語る大衆文化の研究家としても世間にはよく知られており、今回の訃報に関しては、特に安保関連法案成立などの時局を反映して護憲派リベラルの立ち位置から紹介する記事も多かった。本稿で自分が紹介したいのは、そんな鶴見俊輔の日本語を含む言語観の一端についてである。

きっかけは、これもつい一昨日の7月22日頃に紹介“をされた一つのニュース記事だった。メールの文面などによく利用される日本発祥の文化“絵文字”をテーマにしたアニメ映画がハリウッドで制作されることになったというニュースである。

 

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(メールで使用される絵文字いろいろ)

 この絵文字文化、近年は海を越えて海外にも広がり、TSUNAMIやKAIZENと同じように国際化した日本語EMOJIとして認知されつつあるらしくこの映画化もそうした背景のもとで決定したのだろう。

そしてこのニュースに接したことで、小学生時代に好んで読んでいた子供向けの教育絵本「たくさんのふしぎ」シリーズの一冊、「言葉はひろがる」(1988年犯行)の存在を思い出したのである。確か、言語の違いを超えて世界中の人たちでも理解が出来る言葉として、これら絵文字の例がたくさん紹介されていた気がする…。

早速、インターネットでその本について検索をしてみたところ、著者名:鶴見俊輔

二十数年後しに知った事実に目を疑い、そしてもう一度この「言葉はひろがる」を読み返してみたい気持ちが抑えきれなくなった。

即座に古本ネット通販に注文した翌日の7月24日、鶴見俊輔の訃報がyahooニュースのトップを飾っていた。

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本書は小学校三年生前後を対象に平易な言葉で書かれている40ページ程度の教育絵本ではあるものの、内容には著者のこだわりが感じられ、図像なども豊富で大人が見ても楽しい、むしろ、大人になった今読みなおすことで新たな知見も得られる作品となっている。そして、今回本書を読み返して改めて思ったのは、構成やテーマにも著者・鶴見俊輔の数奇な体験とそこから導き出された立ち位置が強く影響しているという実感だった。

 

■帰属すべき国家の選択を迫られた鶴見青年

鶴見俊輔は1922年、有力な政治家の一家に生まれた。母の厳格な教育方針への反発から不良のような少年時代を過ごした後、父のはからいで渡米するや学問に頭角を現し、名門ハーバード大学で哲学を修める優秀な学生となり、難しい事を考える際はもはや日本語よりも英語で考える方が楽だと感じられるほどとなっていたという。

ところが1941年12月の日米開戦を機に運命は一変。日本とアメリカ双方に戦争の大義を見いだせず(強いて言えばアメリカがやや正しいと感じた程度)、日米どちらも支持をしないと米当局に述べたため、敵国日本人で無政府主義者(アナーキスト)の危険人物としてFBIに逮捕され、数ヶ月間の勾留を受ける。

釈放後の彼を待ち受けていたのは「このままアメリカに留まるか、それとも交換船で日本へ帰るか」という二者択一の究極の選択であった。どのもち日本に勝ち目がないことは間違いなく、アメリカに残れば多少は不自由でも衣食住は保証され、学問を続ければいずれは大学教授にでもなれるだろう…。

結局、鶴見青年は日本への帰国を選び、1942年、日本に帰国。それは祖国愛や郷愁といった感情によるというより、戦争に勝っていばる側ではなく、負けそうな、弱そうな側に身をおくことを選んだ、という判断だったらしい。

少年期から培ってきたアナーキーな心性に加え、この若き日の自分が帰属すべき国家や言語すら選択・相対化しうるという経験は鶴見に大きな影響を与えたらしく、後の様々な著作において、彼は冒険家や漂流民、移民、無政府主義者、亡命者など、国家や文化の枠組みを超えて活動した人物を好んで取り上げるようになったという。

「国家の規定する自分、会社、学校、家の規定する自分よりも深くに、おりてゆくと、祖先以来の民族文化によってつくられた自分があり、さらにその底に動物としての自分、生命、名前なき存在としての自分がある。」

これも鶴見俊輔の文章だが、人間からあらゆる精神や知性、文化を取り去った先に見えてくる身体的で根源的な普遍性のようなものにも彼は注目をしていたようだ。文章はさらにこう続く。

「そこまでおりていって、自分を現代社会の流行とは別の仕方で再構成し、新しく世界結合の方法をさがす。そこには、民族主義をとおしてのインターナショナリズムの道がある。

こうした人間観や立ち位置は、件の「言葉はひろがる」にも色濃く反映されている。

 

■赤ちゃんの言葉 民族の言葉

 「わたしは、どんなふうに言葉を習ったか?思い出せません。あなたもそうでしょう。はじめてきいたときは、それが日本語だなんて知らなかった。」

「はじめは、日本語ともいえない、いろいろな音をだします。このころなら、どんな外国語をならっても、うまく話せそうです。」

「そのころにあかちゃんの話している言葉は、日本語というよりも、人間の言葉といってよいでしょう。」

何者でもない原初の自分である赤ん坊がたまたま日本という国に生まれ、日本語に囲まれて育ち、いつしか日本語を話せるようになっていく。言語・民族の別なく、あらゆる人間がみな母親の腹から生まれてくるという普遍性に立脚しつつ、文化の産物である言葉は決して人間に生まれついて備わるものではないことを述べ、そして、別々の言葉や国、宗教に分かれ固まった人間集団同士の殺し合い(戦争)も時に発生し、言葉は争いを止めるよりも、むしろ火に油を注ぐように争いを煽ってきたという事実を本書前半は伝えてくる。

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■冒険家・漂流民・異邦人

中盤からは、そんな言葉や文化の違いを超えようとした人々の足跡が、主に鎖国政策後期の日本の幕末時代のエピソードを中心に述べられる。

海難事故の末ロシアに渡り、後に日本に帰国した大黒屋光太夫、漂流の末アメリカ捕鯨船に救助され渡米の後に同じく帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)、黒船に密航し、自分をアメリカに連れて行くようペリーに懇願した吉田松陰などの比較的有名な人物から、鎖国末期の北海道に単身渡ったアメリカ人冒険家のラナルド・マクドナルド(長崎に送られ勾留された後、アメリカへ帰国)のような知る人ぞ知る人物までが紹介されている。

特にマクドナルドに関する記述…スコットランド人の父とネイティブアメリカンの母の間に生まれ、「有色人種の血が混じっている」と少年時代にいじめに遭い、母と同じ有色人種の国である日本へと憧憬を募らせた末に言葉も文化も知らないままに日本へ向かったというエピソードの紹介には、実に鶴見俊輔好みの選択眼が今となっては感じられる。

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左下:大黒屋光太夫の記したロシア文字による五十音 右上:中浜万次郎によるアルファベット)

 

「マクドナルド、吉田寅次郎、光太夫、万次郎の意気ごみには、今日の日本人がわすれてしまったものがありそうです。相手の言葉を知らなくても、相手が人間ならばじぶんの言いたいことが通じるはずだ、という意気ごみです。知らない言葉でも、それをききとることができる。そのことを、この人たちは、わたしたちにおしえます。」

TOEICの点数などに一喜一憂する現代サラリーマンにはなかなか厳しい言葉ではなかろうか。

 

■世界共通言語の試みと絵文字

本の後半では、国や民族の違いを超えて通用する世界共通言語の試みなどについて述べられる。現在、世界共通言語と言えば無論それは英語と同義であるが、本書ではまずエスペラント語の成り立ちについて軽く触れる。ポーランド語、ロシア語、リトアニア語、ドイツ語の飛び交う北部ポーランド生まれのユダヤ人眼科医ザメンホフが19世紀の末に発表したこの人工言語は、(本書では触れられていないが)その国を超えた国際性ゆえに無政府主義と結びつきやすく、戦前期においてはエスペラント運動に携わる人間は反体制思想の危険人物として当局に睨まれたという。

そして終盤、更に理解の容易な国際語として、絵文字への期待が実例を通じて紹介される

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絵文字の例としてドイツ生まれのアイソタイプ、交通標識、ジプシー(ロマ族)の使用するホウボウ・サインなんてものまで掲載。

 

「絵文字のよいところは、ヨーロッパ人に有利というせまさがなくて、みんなが平等に使えることです。(中略)70歳、80歳のとしよりも、絵文字を自由に使いこなす、新しい時代が来るでしょう。」

「ラジオ、レコード、映画、テレビなどをとおして、世界のさまざまの場所の人たちが、おたがいの動きを知ることができるようになりました。」

現在の、インターネットを通じて絵文字文化が世界に広まっている状況をまるで予言するかのような記述である。そして興味深いことに、本書で鶴見俊輔はこれら絵文字の中には漢字と似ているものがある点も指摘している。確かに漢字も絵文字も、視覚性を重視した象形文字であるという点は共通しており、絵文字が日本で発達したのも、日本人が歴史的に漢字と向き合い、どうにか使いこなそうと四苦八苦してきた事実と関わりがあるように思われてならない。

更に本書では触れられてはいないが、最初に紹介したメールで使われる絵文字(EMOJI)を見れば一目瞭然だが、EMOJIの表現には日本で特異な進化を遂げた漫画表現の影響が強く認められる。

鶴見俊輔は早い時期から漫画に並々ならぬ関心を寄せ、日本における本格漫画評論の草分けとも言える存在でもあった。(同じく漫画評論の草分け的存在である呉智英は、日本の漫画表現と、漢字かな交じり文の親和性を指摘している。)

現在、漫画は日本を代表する文化の一つとして日本国外にも広く紹介され、EMOJIと同じような国際性を獲得している。鶴見俊輔が漫画に惹かれたのも、それが戦後日本の大衆文化を代表するものであった点に加え、国境を超える普遍性の可能性も垣間見たからではないだろうか。

 

「民族主義をとおしてのインターナショナリズムの道」

現在、インターネットを通じて日本語文化は漫画やアニメ作品、ボーカロイド音楽などを媒介に(主に若者文化界隈でではあるが)世界で確かな広がりを見せている。ネットの翻訳機能を使うことで、英語にかぎらずさまざまな言語の外国人とも意思の疎通も確実に容易になった。

一方で、インターネットは憎悪や偏見、過激主義の伝播力も高めた。イスラム国などのテロリストがインターネット広報を巧みに駆使しプロパガンダを撒き散らすのはその恐ろしい一例である。

我々は、日本語と、そして異国の言葉や文化とどう付き合っていくべきか。

「言葉は、じぶんにとっては、じぶんの使いはじめた言語がもとになります。わたしたちにとっては、それは日本語です。この日本語を、人間が使う言葉として使うようにしたい。この言語にうまれついたものでない外国人も、気もちよく使える、ふところの深い言語にしてゆきたいものです。」

言語や文化は違えども人間同士である以上、根源的なところでは同じであるという点に基づき、文化の多様性を尊重し日本語という個別の言語に根ざしつつ、そこから広く世界的な普遍性を模索することへの期待。

「地球上の人間は、食べる、眠る、はたらく、休む、つきあう、愛する、遊ぶという、よく似た問題をかかえて生きています。そのために使っている言語がこの日本語であり、ほかのさまざまな外国語であるということを、感じる力をもつようになりたい。」

武貞達彦君(昭和59年南寮卒)高校生に向けてグローバル経済を語る

武貞達彦君(昭和59年南寮卒)高校生に向けてグローバル経済を語る

2015年3月19日(木)新潟県立五泉高等学校に、キャリア教育講演会の講師として、(株)海外交通・都市開発事業支援機構の執行役員・事業推進部長の
武貞達彦君を招いて、「日本と世界のつながり-グローバル経済の中で-」というテーマで、約440人の高校生に向けて熱く語っていただきました。

自らの50カ国以上に及ぶ海外出張の経験から、日本では想像できないようなエピソードの紹介や、日本経済が直面している現状や課題を分かりやすく説明していただきました。
最後に新潟という「裏」日本の、さらに地方であるが故の有利性、例として発展地域である東アジアに対する良質な農産物や手工業製品の輸出において可能性が大であること
(新潟県の米や野菜、燕三条の刃物・ハウスウエアーや五泉のニットなど)をお話しいただき、人口や産業の衰退が止まらない地方に居住する者に勇気をいただきました。
話の内容もさることながら、端々で滲み出てきた人間性に生徒達は大いに感銘していました。
どこでも誰とでも付き合える柔軟性、仕事で嘘をつかないという誠実さ、仕事は一生懸命やると

楽しいといった前向きさ。
これらは自身の生まれもってのものが大きいでしょうが、和敬塾での4年間の生活も大いに関係していると思われます。
武貞君ありがとう、そして和敬塾にも感謝します。今更ながら和敬塾のありがたさが身にしみました。
塾友の皆様、武貞君のように、高校生に対して講演をしていただける方、いらっしゃいませんでしょうか、おられましたら、五泉高等学校の増井まで連絡ください。ジャンルは問いません。

昭和59年南寮卒  増井 治(新潟県立五泉高等学校 教諭) [ mailto:masui.osamu@nein.ed.jp ]masui.osamu@nein.ed.jp

日本語表記の過去・現在・未来についての考察~その8~ (H16年北卒 谷前 憩介)

日本語表記の過去・現在・未来 その8

 

日本語の“国語”化への道 ~国語辞典「言海」出版~(2

 

平成16年北寮卒 谷前 憩介

 

 

本邦初の近代的国語辞典「言海」の誕生に至る経緯は前回に見てきた通りであるが、では言海がどのような意義・性格を持っていたか、という部分について概略を述べたいと思う。言海が成立した明治の20年代は、明治生まれの新世代がいよいよ若者として社会に進出を始めた頃と一致し、また日本が近代以降初の対外戦争である日清戦争などを通じて、国家というものの体を手探りながらも成しつつあった時代でもあった。

 

 

■“日本普通語”と国民の創成

 

 大槻文彦らの凄まじい苦労の末に刊行された言海は、その苦労に見合うように世評もすこぶる高く版を重ね、文筆家周辺のみならず一般家庭にも広く普及をしていった。これは、言海が一部専門家のための特殊な用語事例のみを収録した専門書ではなく、広く地域を問わず日本国民全体を読者としうるほどの普遍性・網羅性を有していたからであろう。それこそが江戸時代にもあった各種字引類との違いであった。

 

言海は地名や人名などの固有名詞ではなく、一般的な日本人が用いるであろう言葉(それを大槻文彦は日本普通語と呼んだ)が主となっておよそ四万語が収められた。現在の代表的国語辞典である広辞苑第六版の二十四万語と比べると少ない印象を受けるが、当時としては比類のない規模を誇った。

 

言海が必然的に読者としてその射程に捉えたのは、前述のとおり日本国民全体である。

 

江戸の時代、お国といえば庶民にとってはそれぞれの生まれ住まう地域を意味していた所、明治維新以降、廃藩置県や徴兵制、何より学校公教育の普及により、次第次第に一般庶民にも「我等は日本国の国民である」という意識が広がりを見せ始めたいた頃である。

日本国民が出身地域によらず同一の日本国民であれば、言葉もまた地域によらず同一性を確保されねばならない…。言海の示した「網羅的な日本普通語」の姿は、そういう理念の具現化でもあったのだろう。大槻文彦は述べる。

 

一国の国語は、外に対しては、一民族たることを証し、内にしては、同胞一体なる公儀感覚を固結せしむるものにて、即ち、国語の統一は、独立たる基礎にして、独立たる標識なり。されば、国語の消長は、国の盛衰に関し、国語の純、駁、正、訛は、名教(道徳)に関し、元気に関し、国光に関す。

 

日本普通語、言い換えれば国語の統一こそが独立の証。民族統一の証。元来言語学の門外漢であった大槻がかくも精魂込めて国語辞典の編纂にあたったのは、男子の一生を賭すにふさわしい国事であるという認識があったからであろう。

 

五十音の採用 西洋志向と廃仏毀釈の影

 

言海に関して更に特筆すべきは、索引がいろはにほへとではなく五十音を採用したことだった。

 

江戸時代、寺小屋などで子供たちは読み書きを学習する歳、最初に教えられるのは、あいうえお…ではなく、いろはにほへと…のいろは歌であった。

 

いろはにほへと              色は匂へど
ちりぬるを                     散りぬるを
わかよたれそ                 我が世誰ぞ
つねならむ                     常ならむ
うゐのおくやま             有為の奥山
けふこえて                     今日越えて
あさきゆめみし             浅き夢見じ
ゑひもせす                     酔ひもせず

 

いろは歌は日本語を構成する47の基本的な発音を1文字ずつ重複すること無く使用され、しかもそれが一つの意味ある文章をなしている。日本人に馴染みの深い七五調のリズムも相まって唱和にも向いている。成立は平安時代中期頃と言われており、「我が世誰ぞ常ならむ」という言葉に象徴されるように、「この世に永遠のものなど無く、全ては変転していく」という仏教的な諸行無常の考えを説いている。

 

幕末に来日したスイス人のエメェ・アンベールは、この“日本のアルファベット”が寺小屋などで唱和されている光景に興味を覚え、内容を以下のように解釈し、驚きを持って紹介した。

 

「色も香いも、消えていく。われわれの世界において、何か永久的なものなどあり得るだろうか?今日の日は、虚無の深淵の中に消滅していき、そのはかなさは、夢のようである。それは、微細な不安すら残さなかった。」

 

アンベールは、このいろは歌がいかなる書物よりも雄弁に日本人の基礎的性格を表現していると評し、この諸行無常の価値観は、例えば日本の家屋は障子や家具の効果的な使用により、一つの部屋が応接間にも食堂にも寝室にも容易に変化する部分などにも表れているとした。いろは歌は生活・教育の両面において長い年月を経て日本人の血肉となっていたのである。

 

一方、現在の小学校の国語の授業は、まずは「あいうえお…」と五十音の暗唱から始まるのが普通であり、いろは歌は古典の授業で取り上げられることはあっても日常からほぼ姿を消したと言ってよい。教育の世界でその変化が決定的となったのは、言海の発行と近い明治20年代前後の事であったという。

五十音はまずは母音のあいうえおから始まり、いろは歌とくらべても非常に規則的、システマティックな印象を受ける。一方でいろは歌と違い、意味のある文章にはなっていない。

 

五十音もいろは歌と同じく、その原型は平安時代の頃に仏教における仏典の発音研究の過程で派生的に誕生したものらしいが、それを発音表として確定させたのは、以前も紹介した本居宣長ら江戸時代の国学者達だったようだ。

本居宣長は「漢字三音考」の中で、「皇国の古言は五十の音を出ず。これ天地の純粋の音のみ用ひて。混雑不正の音をまじへざるがゆえ也」と、五十音こそ古代の純粋な日本語の発音であるとの見解を、やや極端なな形で述べている。

彼は中国やインド由来など外来の文化や思想を漢(から)意(ごころ)としてしりぞけ、日本の純粋性のようなものにこだわりを見せたことは前にも述べたが、五十音の研究にはその辺りの事情も絡んでいたのだろう。いろは歌はあまりにも仏教的(≒からごころ)すぎる。(五十音も仏教との関わりの中で生まれたものだったのだが…)

 

明治維新を成し遂げた思想的な原動力は、西洋に習おうとする洋学の系譜と本居宣長以降に盛んになった国学の系譜が混ざり合っているが、その両者にとって都合の良いのはいろは歌よりも五十音であった。西洋を範とする洋学者の側からすれば、発音が母音と子音に分けられて規則正しく配列された五十音は合理的であり、日本のアルファベットとするにふさわしく思われる。そして国学者の側からすれば、五十音は天地開闢以来の古代日本の純粋な日本の発音と考えられたからだ。

 

 

更に教育の場からいろは歌が姿を消した理由の一つとして考えられているのが、当時の日本で行われていた文化破壊の蛮行、廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)の影響である。

日本では「神様仏様」というように長い年月をかけて神道と仏教が交じり合っていた所、神道の長である皇室をたてまつって発足した明治新政府は、神道と仏教の分離を試みた。結果、仏教を軽んずる風潮が生まれ、日本各地で民衆によりお寺や仏像が破壊されるという事態も明治の初期には頻発している。現存していれば重文国宝クラスになったかもしれない仏教遺産が多数破壊されたのだから、もったいなくまた罰当たりな話だが、以前も述べた通り、当時の知識人有力者の中にも旧来の伝統や遺産には何ら価値を見出さない風潮が強く、貴重な遺産の破壊や散逸を嘆いたのはむしろ西洋人達であったという。

実際の話、殖産興業・富国強兵を旨とする明治日本の基本方針に、諸行無常とか盛者必衰とかといった仏教的な価値観はそぐわぬ面があったのも事実で、さまざまな理由の中でいろは歌は次第に五十音に取って代わられていったものと考えられる。

 

こうして日本初の近代的国語辞典である言海には五十音が採用されたが、意外な人物がそれを批判した。大槻文彦と同じく明六社の主要なメンバーであった福沢諭吉である。

開明的な福沢諭吉が五十音よりいろは歌を支持したのは意外な話だが、福沢諭吉は何より実用性を重んじた。いろは歌は庶民の世界にまだまだ深く根付いていたため、五十音よりいろはの方が読者にとっては実用的であると考えたのだ。変にイデオロギーが絡んでいないあたりがさすがである。

 

まさに諸行無常を地で行くように公の場から姿を消していったいろは歌だが、大正年間の頃まで電話帳はいろは順で並んでいたというから、如何に民衆に染み込んでいたかという事が良くわかる。

 

近世と近代を結ぶ言海

 

文法、意味の特定、普通語、五十音…。ここまでの紹介だと、言海という辞典はどこかシステム的すぎて人間味に欠ける、あるいは近代日本の帝国主義的な欲望をぎらつかせているという印象を持たれるかもしれない。言海が持つその網羅性・システム性がかえって日本語表現の可能性を狭めたという批判もある。

 

一方で、言海は単なる辞典の枠を超えて多くの愛好者も生んだ。後年の作家であえる夏目漱石や芥川龍之介の作品内にも言海は登場し、戦後の作家の開高健も愛読していたという。現在も読書人の間では人気は高く、文庫にもなった他、古書店でも買い求められることも多いらしい。

 

言海の編纂の過程で、大槻文彦は東西古今の様々な文献にあたり、その中には江戸時代に編纂された雅語辞典や博物図鑑などの近世辞書も多く含まれており、用語の解説にそれら江戸時代の文献からの引用が多いことが近年指摘されている。近代的な体裁を持つ一方で、文章そのものは古典の味わいを併せ持っているのだ。そのあたりのギャップが独特な魅力となり、また明治前半期の日本語空間をあらわす一級のサンプルにもなりえているという評もある。

 

例えば、よく引用されるのが“猫”に関する記述。

 

人家ニ畜フ小キ獣、人ノ知ル所ナリ、温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠ヲ捕フレバ畜フ、然レドモ、竊盗ノ性アリ、形、虎ニ似テ、二尺ニ足ラズ、性、睡リヲ好ミ、寒ヲ畏ル、毛色、白、黒、黄、駁等種種ナリ、其睛、朝ハ円ク、次第ニ縮ミテ、正午ハ針ノ如ク、午後復夕次第ニヒロガリテ、晩ハ再ビ玉ノ如シ、陰処ニテハ常ニ円シ。

 

文語で書かれているため現代の我々には読みにくい部分もあるが、「ねずみを捕ってくれるが盗み癖がある」とか「眠ることを好んで寒さを嫌う」とか「朝は体を丸めており、真昼頃には針のように体が張り、……、夜は再び玉のように丸まる」とか、情景が目に浮かんでくるようで何ともユーモラスだ。学術的でも体系的でも全くない。こういう味わいは近年の辞書にはあまり期待できない部分だろう。この記述にも大槻文彦のユーモアと共に、江戸期の博物図鑑の影響をみる研究もある。

芥川龍之介はこの記述を面白がり、随筆「澄江堂雑記」において、

「これをしも「竊盜ノ性アリ」と云ふならば、犬は風俗壊乱の性あり、燕は家宅侵入の性あり、蛇は脅迫の性あり、蝶は浮浪の性あり、鮫は殺人の性ありと云つても差支へない道理であらう。按ずるに「言海」の著者大槻文彦先生は少くとも鳥獣魚貝に対する誹謗の性を具へた老学者である。」

と、愛着込めて皮肉った。

 

言海そのものは日本の近代化の要請にこたえる形で成立したものだが、言海の中において近代以前と近代は決して断絶はしてはいなかった。その意味や意義については、今後も我々は考えていくべきであろう。

 

かな文字運動の方へ

 

洋学者の祖父、儒学者の父を持ち、和漢洋に渡る膨大な資料を駆使して言海を成立させた大槻文彦であったが、彼本人は明六社の他メンバーと同じく漢字廃止論に傾いており、明治十四年に発足したかな文字運動団体「かなのくわい」(假名の會)に参加している。

 

かなのくわいは皇族の有栖川宮 熾仁親王を会長にいただき、一時期は会員数も一万を超えるなどかなりの規模を誇ったようだが、かな文字の表記を伝統的な歴史的かなづかいとするか、現在我々が使っているものに近い表音的かなづかいにするかで意見が対立するなどまとまりには欠け、言海の初版発行位の前年の明治二十三年(1900年)頃にはほぼ活動停止状態となってしまった。かな文字運動のより本格的な再興は、後年のカナモジカイの発足を待たねばならない。

 

(続きます)

 

日本語表記の過去・現在・未来についての考察~その7~ (H16年北卒 谷前 憩介)

日本語表記の過去・現在・未来 その7

 

日本語の“国語”化への道 ~国語辞典「言海」出版~(1)


平成16年北寮卒 谷前 憩介

 

 

明治初期の日本がいかなる形で西洋思想を受容し、その熱烈な信奉者となっていったかについての一断面は、前々回・前回に触れたとおりである。西洋にならうという事は単なる一過性の流行ではなく、そうしなければ日本は後進国として没落してしまうという危機感、そして西洋文明こそが全世界の文明国が目指すべき唯一普遍の“進化”目標であるはずだという確信が明治初期の知識人たちに共有されたのである。

 

では彼らが信奉した欧米列強諸国は自らの言語をどのように扱っていたかというと、イギリスなら英語を、フランスならフランス語を、ドイツ語、オランダ語、ロシア語…というふうに、各国はそれぞれの国で用いられる言語を、それぞれの国語としてまとめあげる作業を惜しまなかった。(ちなみに国語という言葉も明治期に誕生した和製漢語である。)

たとえばとある国家において、A地方とB地方が別の言語をそれぞれ用いていた場合、同じ国家であるにもかかわらずA地方出身者とB地方出身者は意思の疎通が困難となり、これでは国家の運営に多大な支障が生じてしまう。そそのため、近代的な統一国家は国語を整理し、学校教育による普及を通じてその国の住民たちに同じ言語や文化、伝統を共有する国民としてのアイデンティティを確立させようと務める。(その結果、日本においてはアイヌや琉球のように独自性の高い地方の文化や言葉は失われていく傾向に陥るのだが。)

 

辞典は、それら国語政策における大変重要なツールであったため、各国は官民問わずその国の国語をまとめあげた辞典の作成にいそしんだ。たとえば、アメリカで19世紀に出版された英語辞典「ウェブスター辞典」は、アメリカがイギリスより独立を勝ち取ったという歴史的経緯を踏まえ、イギリス英語ではなくアメリカ英語にもとづいていた、といった具合であった。

 

 

 

言葉の海のたゞなかに… 大槻文彦の苦闘

 

欧米列強を模範とした日本も、日本語を国語として整理体系化するにあたり、近代的な国語辞典の編纂は必須であった。その困難な作業をほぼ独力で成し遂げたのは、前回紹介した歴史書「萬国史略」の翻訳作業にあたった洋学者の大槻文彦(1847~1928であった。彼が半生を捧げて大成した日本最初の近代的国語辞典は、言(げん)海(かい)という。

 

WEB言海: http://www.babelbible.net/genkai/genkai.cgi

 

洋学者を祖父、儒学者を父に持っていた大槻は文部省に勤務していた明治7年、上司の西村茂樹より国語辞典の編纂を命じられるが、まさかこれが自身の後半生を賭すほどの一大事業になるとは夢に思わなかったに違いない。

当保、彼は日本語辞典をつくるにあたっては、アメリカのウェブスター辞典をそのまま日本語に翻訳すればよいと簡単にとらえていた。現代の我々からすれば、英語辞典をもとに日本語辞典をつくるという発想に突拍子もない印象を受けるが、以前も紹介したように当時の日本は翻訳教科書時代、読み書きの教科書すらアメリカのリーディングテクストを翻訳して使っていたような時代でもあった。

 

ところが、作業を進めるにつれ次第に事はそう単純ではないことが明らかとなる。英語を日本語に翻訳しただけでは、英語には存在しない日本語独特の表現や単語は当然もれてしまうし、同じ言葉でも国が違えばその意味するところは違ってくるものも多い。

(たとえば、brotherは“兄弟”を意味するが、年長の“兄”、年少の“弟”を意味する単語は英語にはない。)

 

更に日本語の中には意味のよくわからないもの、時代によって意味の変わってくるもの、由来が不明なものも多かった。語源にしても日本語本来の大和言葉もあれば、中国朝鮮由来の言葉やインド由来の言葉、ポルトガルやオランダ由来の言葉もある。更に福沢諭吉ら明六社のメンバーによって社会とか国民とか科学とか新しい言葉が次々と作られる真最中でもあった。(ちなみに大槻文彦も明六社の会員であった。)

とにかく前例のない作業であったため参考文献を探すところから始めねばならず(当然それら参考文献も現在のように整理されているわけではなかった!)、祖父や父の蔵書をはじめ各地に参考文献を求めて駆けまわる毎日が続いた。参考文献の中には、本稿その2に登場した漢字批判者の賀茂真淵や新井白石のものも含まれていたようである。

 

単語の意味を調べる一方で厄介だったもう一つの作業は品詞分類であった。現在では、単語はそれぞれ名詞・動詞・形容詞・副詞・前置詞…というように細かな分類がなされて辞書にもその言葉がいかなる品詞に属するかも記載されているが、西洋の言語学からやってきた品詞分類という発想はそれまでの日本語にはなかったため、単語の意味の特定と同時に、近代言語学的観点からの日本語文法の研究作業も同時にすすめねばならなくなった。結果、言海は国語辞典であると同時に文法書の性質も備えるに至り、冒頭に日本語文法を解説した語法指南の項が設けられるに及んだのである。作業量は更に膨れ上がった。

 

…こうして作業開始から7年目の明治15年に初稿があがり、更に4年の校正機関を経て明治19年に言海の原稿はようやく一応の完成をみた。

 

言葉の海のたゞなかに櫂(かい)緒(お)絶えて、いづこをはかとさだめかね、たゞ、その遠く廣(ひろ)く深きにあきれて、おのがまなびの淺(あさ)きを耻(は)ぢ責むるのみなりき。

 

言葉の海のただなかにあって船を進ませる櫂を失い、場所も定まらぬ中、ただその言葉の海の遠大さと深さに呆れ、おのれの学の至らなさを恥じるのみ…。10年以上の月日をかけて大槻文彦は日本語という苦海を漂った。

それでも、労苦の日々はまだ終わらなかった。今度は、印刷という技術上の問題が待っていたのである。

 

植字校正のわづらはしきこと、熟練のうへにてもはかどらず

 

原稿が完成すればいよいよあとは出版である。しかし文部省内部の種々の人事異動などの事情もあり、原稿は日の目を見ぬまま死蔵状態となってしまった。

更に2年後の明治21年、ついに自費出版という形で出版するはこびとなり原稿を下賜された大槻であったが、苦難はまだ終わらない。

 

印刷は当時日本では最新の印刷技術であった西洋伝来の活版印刷が用いられることとなったが、当初の原稿のままでは活版に適さない部分も多く出ていたため、一度校正の終わった原稿を更に校正する作業にとりかからねばならない。結局校正は6回に及んだ。

 

日本にはじめて活版印刷が紹介されたのは安土桃山時代のキリスト教宣教師によるものとされており、江戸時代には徳川幕府が朝鮮渡来の活版印刷を用いて書物の編纂を行ったこともあった。しかし民間の出版は長らく一枚の版木に文字や絵を彫り込む木版画印刷が用いられ続けており、文字一字一字を活字に分解し、ページごとにそれら活字を組み替えるという活版印刷の発想が本格的に民間に紹介されるのは幕末を待たねばならなかった。

が、アルファベットと各種数字や記号のみを用いればよい欧米と違い、日本語はひらがな・カタカナ、そして数万に及ぶ漢字があるため、いくら活版印刷が効率的とはいえその作業量は欧米のそれと比べて膨大なものになってしまう。辞典ともなればなおさらだ。

 

 

まず、ひらがなやカタカナなどかな文字の活字の規格が統一されていなかったため、文字の寸法がいちいち違うなどの問題が生じた。更に辞書のため、あまり一般的でなく活字の用意されていない漢字も頻出し、それらの活字は新たに鋳造せねばならなかった。

 

私事においても不幸は続発した。校正の協力者が脳溢血で倒れ、更には愛する妻と娘も病で失うなど苦難と不幸を大槻文彦は味わい尽くした。刊行計画は遅れに遅れ、予約者達は大槻文彦の名前をもじって大うそつき先生とさげすんだ。そのあたりの困難、苦闘、胸がつかえるような悲しみを、大槻文彦はことばのうみのおくがきに詳述している。

 

ことばのうみのおくがき

http://www.aozora.gr.jp/cards/000457/files/43528_17152.html

 

こうして明治24年、計画の発足より16年の月日を要したのち、ようやく言海は出版にこぎつけ、完成祝賀会には時の内閣総理大臣伊藤博文をはじめ各界のそうそうたるメンバーが集ったという。

 

(続きます)

名プロデューサーを偲んで (平成19年北寮卒 浅野克行)

大阪に向かっている。彼の訃報に接したのは3月。半年が過ぎてしまった。彼とは学生時代に和敬塾北寮で出会い、4年間苦楽を共にした。先輩に可愛がられ、後輩に慕われ、同輩に愛された彼は、今年の1月11日に命を落とした。

ラガーマンである彼は、体育祭で大活躍。そのごつい体と男気あふれるプレー で、柔道、綱引き、騎馬戦と、パワー系種目の第一人者となった。そしてよく飲んだ。我先にジョッキを手にし、決して強くはない酒を、仁王様みたいな顔をし てあおっていた。彼との飲み会は、いい思い出ばかりだ。

豪放磊落、と言いたいところだが、そうではないところに、彼の魅力がある。 ひとつひとつに真面目な人だった。こだわりも強く、洋服や家具など、身の回りのモノに人一倍の愛着を持っていた。同期の忘年会や学年旅行を何度も企画して は成功に導き、いつしか「P」というあだ名もついた。卒業の年には、塾友会幹事に満場一致で選出された。繊細で謙虚でマメにして、奥手。それが彼の勲章 だ。

こつこつまとめた同期会名簿をもとに、彼が年賀状を寄越してくれる。「明けおめ!まだまだ不定期勤務は続きます。今年もヨロ。」相変わらず圧の強いカクカクの字で。今年の正月は喪中だと丁寧に葉書をくれていた。

じゃーな、P。ジジイになったらまたくるわ。丹波路の 高き空みて カップ酒。合掌。

平成26年9月15日 浅野克行

ida

日本語表記の過去・現在・未来についての考察~その6~ (H16年北卒 谷前 憩介)

日本語表記の過去・現在・未来 その6

 

明治前半期の欧化主義と日本語(2)

 

平成16年北寮卒 谷前 憩介

 

 

明治日本は進歩的な西洋文明に比べれば未だ開かぬ後進国である以上、日本は社会・文化、そして言語に至るまで全てにおいて西洋を手本とし進歩発展しなければならぬ…。

 

現在に至るまでなお生き続けるこれら西洋(≒近代世界)信仰が明治初期に日本人達の間で大いに受け入れられたことは既に見てきた通りであるが、今回は「日本語表記の近代史」という本記事の趣旨からはやや外れる部分もあるが、それら進歩思想の日本における受容の背景の一端について触れてみたいと思う。

 

 

歴史教育の観点から ~「パーレー(ばん)国史(こくし)」と日本人~

 

キリスト教世界であった西洋においては、歴史叙述もまた

 

天地創造→アダムとイヴ→(中略)→キリスト降臨→(中略)→最後の審判→至福千年

 

というような新旧聖書の世界観が色濃く反映されたものであった。こういったキリスト教的世界観に基づく世界史叙述をUniversal(ユニバーサル) History(ヒストリー)(普遍史)と呼ぶ。

普遍史はギリシャ・ローマの時代に成立し中世期には西洋世界では広く受け入れられたが、その後のルネサンスや大航海時代、啓蒙主義の時代を経て科学と発見の世紀であった19世紀当時には、既に過去の時代の遺物となっていた。地層を調べれば見たこともない変な生き物の化石が大量に出土、海の向こうには(聖書に一言も記述もない)新大陸アメリカがあり、そもそも地質学を研究すればするほど地球の歴史は聖書の記述(せいぜい数千年)よりよほど古いらしい事が裏付けられ、そもそもヒトは神の似姿ではなくサルの仲間から進化したのではないか…、もはや西洋人も信心深い聖職者や善良で保守的な庶民などを別にすれば、世界史=聖書(普遍史)だと信じるものはほとんどいなくなったのである。

科学や歴史学などのアカデミズムの世界からはほぼ見捨てられた普遍史的な世界観は、一方で一般庶民向けの歴史読み物や初等教育の世界ではまだ命脈を保っていた。そして明治初期の日本に持ち込まれた世界史の教科書が、まさにその普遍史であった。

 

 

明治初期の日本の教育事情は「翻訳教科書時代」と呼ばれるほど教材を欧米に頼りっきりであり、世界史の教科書もまた米国製のパーレー萬国史が翻訳して使用された。(ここではUniversal Historyは「普遍史」ではなく「万国史」と翻訳されている。)

パーレー萬国史を日本に最初に持ち込んだのは本稿おなじみの福沢諭吉で、翻訳作業に当たったのは後に日本最初の近代的国語辞典「言海」を著した洋学者の大槻文彦であった。翻訳作業の後に明治7年に「萬国史略」として教育現場に投入された本書は、翻訳の課程で神による天地創造やアダムとイヴ、イエス・キリストなどのキリスト教的な記述は削除されたが、(キリスト教化された)西洋こそが文明国であり、それ以外の世界は野蛮国、未開国、やや文明化された半文明国であるという今日の目から見たら極めて西洋中心主義的な世界認識はそっくり継承されている。わざわざアメリカ製の教科書を使用するのも、それまで日本には存在しなかった“世界史”の概念を教育に導入する上でやむをえぬことではあったが、この進歩する西洋と停滞する東洋という構図、そして我らが日本もまた停滞する東洋の半文明国に過ぎないという認識が教育を通じて明治初期の学生たちに共有されたわけだ。しかし日本人は怒るどころかそんな世界観をあっさりと受け入れ、むしろ「自分たちも早く西洋のような文明国にならねば」とますます積極的に欧化主義に傾くこととなった。その辺の事情は前回にも触れたとおりである。

そして後年、明治初期のこれら西洋中心主義への潜在的な反発は、より極端な形で表出することにもなる。

 

萬国史略 http://www.library-noda.jp/homepage/digilib../meiji/018.html

 

科学の観点から ~「進化論」と日本人~

 

欧米の書物の翻訳作業と並び、明治初期に国を挙げて行われた日本近代化の取り組みの一つに、外国人の指導者・助言者の各方面に渡る積極的登用であった。いわゆるお雇い外国人である。

イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、ロシアなどの欧米列強諸国からこれまた多方面(政治経済、法制、哲学芸術、科学、医学、軍事、教育などなど)に渡る専門家が次々と明治政府の招聘を受ける形で来日した。大学で教鞭をとる者、技術者として現場を指揮する者、政府の顧問として政策への助言を行う者、明治期に於ける彼らお雇い外国人の果たした役割は非常に大きいものがあったのは周知の通りである。

そんなお雇い外国人たちの中でもこんにち最もよく知られる人物の一人に、米国出身の生物学者エドワード・S・モースがいる。東京帝国大学で生物学の講義を持つ傍ら、大森貝塚の発見・発掘調査を行い考古学や民俗学への研究の端緒も開くなど、生涯に渡り日本と深い関わりを持った人物であった。晩年の回想記「日本その日その日」は明治期日本の姿を今に伝える貴重な資料ともなっている。

 

多方面に渡る活動を通じて日本近代史に深い関わりを結んだモースであったが、教育者として随一の功績は、やはり当時欧米の最新学説であった進化論を日本に初めて紹介したことであろう。発足間もない東京帝国大学に於けるモースの講義が、我が国における進化論普及の端緒となった。

19世紀後半、イギリスの博物学者ダーウィンらによって提唱された進化論は、単なる生物学の枠を超え社会観・人間観そのものを揺さぶる大論争をヨーロッパにもたらした。従来のキリスト教的自然観においては自然も人間も等しく神の被造物であり、特に人間は最も神に近い存在であったところが、進化論に従う限り自然は神の御心ではなく生物同士の厳しい生存競争によって支配されており、人間もまたそんな自然の一部に過ぎずその祖先はサルと同じ……、先に紹介した普遍史の世界観を決定的に崩壊させたのも進化論だった。

 

生物が厳しい静音競争の中で個々の能力を絶えず変化させながら進化してきたという考えは、人類が絶えまない争いの歴史の中で文明を発展させてきたという歴史の原理の説明にも応用が効くのでは無いか?

生物学の原理である進化論を安易に社会学や歴史学に当てはめようとするこれら社会ダーウィニズムの発想は、こんにちでは正当な根拠を持たない単なるイデオロギーであるとされている。この方面における最悪の事例は、優れた人種は劣った人種を滅ぼしても構わないとし、実際に“劣等人種”とされたユダヤ人の絶滅をはかったナチスドイツのケースだろう。

しかし19世紀の当時においては最新の科学的学説でもあった進化論は洋の東西を問わず多くの先進的知識人に影響を与え続け、文明や文化の発展を語る上での重要なツールとして流用された。

進化論はキリスト教国家ではなかった明治日本では割とすんなりと受け入れられた。そして折からの欧化主義と相乗効果をなしながら、日本もまた西洋のような文明国に“進化”せねばならぬという社会思想につながっていったことは最早言うまでもない。19世紀の世界は強い国が弱い国を武力で支配する道理なき帝国主義の時代でもあったが、進化論の適者生存の考えを優勢劣敗、強者による弱者の支配の肯定と解釈する事もあながち突飛な発想とはされず、富国強兵を旨とする明治日本のドクトリンと一致する側面があった事も言うまでもない。

この優勢劣敗の発想は軍隊の強さとか領土の広さといった単純な国力の話にとどまらず、文化や言語の分野にも及ぶ。前回紹介したように徳富蘇峰や田口卯吉ら民友社系の言論人たちは日本文化に対する西洋文化の優越を信じていたし、日本語という言語もまたも社会の進化とあわせて新しい形に進化するべきだという発想にも繋がっていった。

直接的な関係で言えば、モースの進化論講義を聴講していた地球物理学者の田中(たなか)(だて)(あい)(きつ)は、日本語表記改革運動にも深く関わり、「日本語の表記にはローマ字を用いるべし」という熱心なローマ字国字論者となった。また、明治後半から大正期にかけて進化論の普及に貢献した生物学者の丘浅(おかあさ)次郎(じろう)も、社会進化と言語の関係に深い関心を抱き世界共通言語を志向したエスペラント語運動に関わった最初の日本人となった。(丘浅次郎についてはいずれまた紹介したい。)

 

 

今思うとキリスト教的世界観が底流にあるパーレー萬国史とそのキリスト教を否定する内容を孕んだ進化論がほぼ同時に日本に移入されたというのもなかなかに皮肉な話である。しかし万国史の持つ西洋中心的世界観、そして進化論に付随する形で受け入れられた社会進化論、これらは明治初期の欧化主義のいわば両輪であり、日本語の近代化という本稿のメインテーマにも影に日向に影響を与える事となるのであった。

(続きます)

「丸紅和敬会」を発足しました

2014年2月6日(木)、丸紅株式会社および丸紅グループ会社の塾友会メンバーにて「丸紅和敬会」を発足しました。
発足式では発足メンバーである8人全員が一堂に会し、それぞれの学生時代の思い出を語り合い、大いに盛り上がり
ました。当会は、メンバー相互の親睦・情報交換や塾生の就活支援等を目的とし引続き活動をしていく予定です。

発足メンバーは下記の8名です。
S59北 鳴川 雅也
S60南 吉野 功一
H6北   北澤 真也
H6西  増野 浩一
H9南  橘 雅門
H12北 山岡 航
H14西 船田 泰
H17西 川口 高志

 

marubeni wakei

marubeni wakei

【第3弾】ワシントンD.C.より (H15北卒 寺田一智)

肥満とアメリカ

 

明けましておめでとうございます。最近、ビール腹を隠せなくなった私ですが、自分の事は棚に上げておきまして、今回は、アメリカの肥満事情について書いてみます。アメリカというと、肥満という、イメージがあると思いますが、それは、まさにイメージ通りで、63.9%のアメリカ人が肥満気味以上-BMI値(Body Mass Index)25以上-というデータも出ていました。ちなみに日本では、30.3%とのこと。街を歩けば、よく、お尻がリンゴのような、黒人女性に時刻を聞かれたり、歩くことがしんどそうな警察官を見たりします(笑) 私は、飛行機に乗るたびに、私の隣の席に、BMI30以下のアメリカ人が配置されるように神様・仏様に心からお祈りします(汗)

 

今週は、体感温度-20度の大寒波がDCを直撃し、脂肪の多いアメリカ人がキラキラと見えたのですが、人種、性別で、ある程度の肥満傾向を感じます。アジア系は、太った人は余り見ず、逆に黒人は、太った人が多いです。また、性別を見ると、男女間の差異は感じられませんが、女性には面白い傾向が有って、留学や駐在しているアジア女性は、来た時より、みんな5キロ程度は太ってしまいます。母国に居る時は、健康的な食習慣、公共交通システムの充実、社会的美のプレッシャーから、痩せていますが、アメリカ滞在時には、それらから遠のいてしまいますから、“アメリカ体型”になってしまうのです。しかし、それでも、アメリカ人女性よりはまだ痩せているので、彼女たちに、痩せてるねと褒められることが複雑な気分なのよと、アジア女性はよく笑います。ここまで散々、肥満について書いていますが、身体的特徴は、不可侵のパーソナルな事ですので、絶対ネタにしてはいけません。こてこての吉本漫才は、アメリカでは通用しないのです。

 

マクドナルド

マクドナルド

食事面において、やはり、ファーストフードの影響を否定できないと思います。代表格は、マクドナルドですが、アメリカにおけるマクドナルドの効用性は、日本のそれ以上に高いのです。日米の食事面の大きな違いは、チップ文化の有無とカロリーの高低と思います。アメリカでは、食事の際に、通常20%前後のチップが求められます。結構、ばかにならない出費なのですが、マクドナルドでは、これが一切掛かりません。一方、日本では、そもそも何処もチップを取りませんので、決定的な金銭的効用性は発生しません。

 

しかし、安いマクドナルドなのですが、高カロリーなので、太ってしまうのです。アメリカでは、可処分所得によって、体重を左右される傾向が有ります。金銭的余裕のある人は、健康的な食事にアクセスし易く、ダイエットキャンプなるものにも参加するのです。私がバックパッカー時代に訪れた貧しい国々では、栄養失調で痩せている人が多く、肥満は富の象徴です。一方、世界の富の半分以上を握るアメリカでは、お金を出して、痩せたがる人々が多いのですから、複雑な思いを感じずにはいられません。

 

それでは、またお会いしましょう。

日本語表記の過去・現在・未来についての考察~その5~ (H16年北卒 谷前 憩介)

日本語表記の過去・現在・未来 その5

 

明治前半期の欧化主義と日本語

 

平成16年北寮卒 谷前 憩介

 

 

国家発展のためなら日本語の廃止もやむなし?

 

 西南戦争を起こし、明治天皇に背いた反逆者として死んでなお、人々の西郷隆盛に対する人気は失われることは無く、死後に名誉は回復され上野公園に銅像も建つまでに至っているが、これは外国人などから見ればかなり奇妙な光景に映るらしい。先日、晴れて日本に帰化した日本文学研究家のドナルド・キーン博士も「西郷は何故日本人に人気なのか私には理解の及ばない部分がある」というような事を述べていたほどである。

昔から日本人は敗北者の肩を持ちたがる判官贔屓の心性が働いている、などいろいろ理由は考えられるが、一つ個人的に思うところは、やはり明治維新以降、急速に社会制度も文化も西洋化していこうとする日本に対する、人々の潜在的な拒否感が西郷人気という形につながっている部分はあるのではないか。

「西洋に植民地にされないためには国を西洋流に近代化するしかない」と頭では分かっていても、それでも自分たちの慣れ親しんだ文化や伝統が急進的に否定されていくのは寂しいものであっただろう。国を近代化する(≒西洋化する)という事は、程度の差はあれ自らの過去を否定する事でもあったのだ。

 

西南戦争から時代はやや遡るが、明治6年、アメリカ留学より帰国した薩摩藩士の(もり)有礼(ありのり)

を中心に、日本初の啓蒙学術団体である明六社が発足した。既に度々見てきた福沢諭吉も主要メンバーの一人であった。

明六社は西洋流の啓蒙思想に基づき、人々の知的水準を向上させ、日本を西洋同等の優れた文明国へと発展させるべく、明六雑誌を発刊。そこでは科学・哲学・社会学・教育学などなど広範な話題が扱われ、活発な誌上論争も行われが、それらのテーマの一つに「日本語をどうするか」というものも含まれていたのである。

 

以前にも紹介した通り明六社のメンバーであった福沢諭吉は将来的に漢字は廃止したほうが良いという漢字制限(廃止)論者であったが、より過激な意見も登場した。

メンバーの一人であった西周(にしあまね)は、漢字制限どころか漢字かな文字全てを廃止し、日本語をアルファベットで表記するようにすべしと主張した。アルファベットの方が漢字やかな文字より字数が圧倒的に少なく学習が容易であり、アルファベットに慣れることにより西洋智識の移入もよりスムーズにできるという考えであり、後のローマ字運動の萌芽であったとも言える。

こうも過激な主張を展開した西周だが、一方ではサイエンスに科学という訳語を用意し、エンサイクロペディアには百学連環という実に美しい漢語を用いているところが何とも皮肉である。

 

だが、更に過激な主張を秘めていたのは発起人の森有礼その人であった。森はアメリカに留学中の明治5年、親交のあったイエール大学の言語学教授ウイリアム・ドワイト・ホイットニーに宛てた書簡の中で、「日本語を廃止し、英語を日本の国語とするべきではないか」という主張を述べている。

確かに、日本人全員が英語をマスターすれば、英米の最先端文明の移入はよりスムーズになるであろう。現在でも、世界で活躍できるようにと子供をアメリカンスクールに通わせるような事例はあるが、それを国単位でやろうという発想である。しかしこれには当のホイットニー教授もさすがに難色を示し、

 

「一国の文化の発達は、必ずその国語に依らなければなりませぬ。さもないと、長年の教育を受けられない多数の者は、ただ外国語を学ぶために年月を費やして、大切な知識を得るまでに進むことが出来ませぬ。」

 

と、やんわり森を諭す有り様であったという。また、森とも関わりがあり日本の教育制度近代化に携わったアメリカ人の教育家モルレーも、日本の伝統を顧みず単純に西洋の制度を移植することには反対し、日本人の伝統的美徳を活かした教育制度の確立を提言した。

日本の近代化にあたっては、西洋文明の摂取に貪欲な日本人の方がより急進的であり、かえって西洋人の助言者たちの方が「まぁまぁそんなに慌てなさんな」と保守的な態度を示すことはそう珍しくはなかったようである。

 

日本を世界に劣らぬ文明国にするという明六社の啓蒙思想家たちの信念の高潔さを疑うものではないが、それでも彼らの主張は時として上述のように極端に急進的で一般大衆の感覚からは乖離した部分があったようで、そのため森有礼は“明六の幽霊(有礼)”と人々から皮肉られもしたが、彼は明治政府のもとで教育行政に携わり、後年日本最初の文部大臣となっている。

 

■進化・普遍の帰結としての西洋文明

 

 それにしても、この人達はどうしてこのような極論に走ったのだろうか。確かに国の将来を考えるなら西洋文明を受け入れることは重要だっただろうし、そのために日本語を時代に応じて変えていかなければならないというのも分かる。しかし漢字に留まらず、かな文字、ひいては日本語そのものを廃止してしまおうという意見には、こんにちの我々からすれば非常に極端な意見に思われるだろう。そうまでしてまで日本は西洋化される必要はあったのか?

 

あった。日本は西洋化されるべきだ。なぜなら、西洋こそは世界の全ての文明国家の目指すべき普遍的目標だからだ。明治初期、西洋に対し無邪気な憧れを抱いていた若き知識人達の中には、そう考えるものは少なくなかった。

 

前回終盤に紹介した徳富蘇峰(本名:徳富猪一郎)。先日最終回を迎えた2013年の大河ドラマ『八重の桜』にも後半の重要人物として登場していたので、ご存知の方もおられることだろう。熊本や同志社で洋学を学んだ後、言論人を志し後に戦前日本を代表する大ジャーナリストとなった人物である。

徳富はジャーナリストらしく時代(現実)に合わせる形でその思想を大きく変えていった人物だが、初期の明治20年代前半頃までは概ね庶民の生活向上を唱える穏健な平民主義、そして強烈な西洋文明の信奉者だった。彼は同志たちと民友社を興し、海外雑誌を参考に出版された雑誌「国民之友」は非常に進歩主義的で、日本は全体的に西洋化されるべきだと説き、当時の志ある若者たちに大きな影響を与えた。

幕末期に盛んに唱えられた言葉に“和魂洋才”という言葉があった。これは東洋日本の道徳(和魂)と西洋の学芸(洋才)を折衷しようという思想で、明治政府の大まかな路線にも通じるものがあった。しかし徳富はこの考え方に異を唱える。西洋の学芸と西洋の思想は深く結びついており、どちらか一方のみを移植することなどは出来ない。もし西洋の学芸を日本に根付かせようとするならば、日本も思想や文化のレベルで全面的に西洋化する以外に他はないのだ…。

 

「我ガ社会ハ既ニ生活的、政治的、学問等一トシテ泰西(西洋)ノ新主義ヲ輸入セザルハナシ。(しこう)シテ今ヤ我ガ社会ハ既ニ泰西的社会ニナラント欲ス。而シテ独リ此社会ヲ支配スル所ノ泰西的ノ道義法ノミ、(これ)ヲ輸入セザルハ(そもそ)モ何ゾヤ。彼ノ体面法コソ智識の進歩ト独立スルヲ得可キモノナリ。」(1885年 「新日本之青年」)

 

 1885年、全面的な日本の西洋化を唱えた徳富の論文の一節だが、社会や進歩といった新漢語が使用されている点も見逃せない。徳富自身は国語国字問題については目立った主張を述べてはいなかったようだが、彼自身英語に流暢で上のように西洋化への意思を表明していた以上、日本語や日本の伝統文化を守れと主張する守旧派に対しては当然に冷淡であった。

 

 

森有礼の事例でも述べたように西洋化にはやる日本に対し、当の西洋人達の側には日本が西洋化して“普通の国”になってしまうことを惜しむものは絶えなかった。実際、当時日本を訪れた西洋人達の中には人情や自然美、そして伝統芸術の巧みさに魅せられるものも多かったのである。しかし徳富ら当時の日本の新世代の知識人達は、日本の伝統文化に誇りを見出すことは出来なかった。日本にはゲーテもシェイクスピアもいなかった。九谷焼の焼き物や狩野派の絵画、日光の東照宮のような伝統美にも何の価値もない。それらは封建的で怠惰な旧時代の支配階級のためのものに過ぎず、平民が主役の新時代にあたっては価値をなさないものだ…。当時日本に滞在中であったイギリス人のバジル・ボール・チェンバレンによれば「教養ある日本人は、自分たちの過去と手を切ってしまっている。」という有り様であった。

 

社会の進歩とは一直線であり、その先には西洋的な社会が待っている。

 

徳富蘇峰ら民友社の人々と思想を同じくした田口卯吉(1855~1905という人は、これらの欧化主義をよりいっそう徹底させた思想を持っていた。当時、イギリスのエコノミスト誌に触発されて日本最初期の経済専門誌「東京経済雑誌」を主宰していた田口は、進歩について更に(今日の目から見れば)極端な見解を表明した。

(余談だが、“経済”は明治以降にエコノミーの訳語として使用されるようになった新漢語だが、その語源は古く古代中国の東晋時代の書物に登場する經世濟民という言葉が元になっている。)

 

日本が西洋化することは何ら恥ずべきことではない。なぜならいかなる日本の文物よりも西洋のそれのほうが優れているからだ。人間は地域性や環境によってこれまでそれぞれに違う文明を発達させてきたが、同じ人間である以上その違いは本質的には存在しない。そして西洋文明こそが、世界中の全人類が目標とすべき、進歩の先の普遍的価値そのものだ。こうして全世界が等しく西洋化されたあかつきには、文化的な差異は消滅し、国境も意味を失い、戦争は時代遅れとなるであろう……。

 

田口卯吉は徳富蘇峰と同じくクリスチャンであったが、聖書に登場する有名なバベルの塔のエピソードも念頭に置かれていたのかもしれない。(全世界が西洋化した時、恐らく世界中の人々は英語などをベースにした共通言語を話すに違いないであろう。)

たしかに21世紀の現在、世界中のほとんどの国々は西洋的な社会機構を備えるに至ったし、西洋由来の科学技術に基づく情報化の進展もあった。英語は世界中の知識人たちにとって必須の教養ともなった。しかし田口があと半世紀長生きし二度の世界大戦を経験したならばどう思ったことだろうか?現在から見れば、悪い意味で地球市民的夢想に満ちた甘すぎる見通しだが、当時とにかく日本人はそれほどまでに西洋に過剰な憧憬を抱いていたらしい。(その点に関しては現代も笑えないところがある。)

 

進歩や進化、これらは共に明治時代に登場した新漢語である。それまで漢字に代表される旧時代の学問がいにしえの古典的世界を理想としたのに対し、明治以降の進歩思想は未来にバラ色の理想を夢見た。そして進歩とはとりもなおさず西洋化と同義であった。

 

教養と志を備える新時代の若者たちの多くがこういった意見に同調していた明治初期であったから、日本語を変えるとか漢字をやめるとか日本語をなくすとか、それら意見が彼らの間においては極論とはみなされなかったのも当たり前であったのかもしれない。進歩思想に従う限り、漢字は古代の象形文字の影響を色濃く残した鈍重で古臭い遺物であり、軽くて進歩的な表音文字がより進んだ文字という事になるからである。果たして漢字の、日本語の運命や如何に?

 

(続きます)

 

 

 

 

 

 

【第2弾】ワシントンD.C.より (H15北卒 寺田一智)

マー君とクリスマス!

 

クリスマスに日本の野球ファンにとって大きなニュースが飛び込んできました。楽天が田中投手の大リーグ挑戦を申請したのです。日本の報道では、メジャーにとって、大きなクリスマスプレゼントと好意的に取り上げられているようですが、アメリカ人にとっては、ちょっと違うのです。

 

まず、アメリカでは、日本ほど、野球に大衆性が無く、アメフトやバスケットボールの方がはるかに人気であることです。そして、入札を申請した時期が、クリスマスということが問題なのです。日本人にとって、クリスマスは、ケーキを食べることぐらいで、特段、大きな意味を持ちません。しかし、多くのアメリカ人にとって、クリスマスは、家族と過ごす大事な休暇であり、12月25日から、1月の1日まで、ずっと閉まっている仕事場も少なくありません。1週間余りのクリスマス休暇は、彼らにとって、日本人の正月三が日といった感じでしょうか。

 

アメリカ人は、日本人ほど働きませんし、働く事より、家族や友人たち(仕事場の友人ではなく)と一緒に過ごしたり、趣味に時間を費やしたりすることに、価値を置いています。分かりやすく言えば、みのもんたは、日本では鉄人ですが、アメリカでは、変人です(笑)また、その人のお金の使い方を見れば、その人の価値観が何となくわかりますが、日本人は、仕事関連の付き合いや住宅関連に出費が多い傾向にあります。一方、アメリカ人は、友人や家族との交際費や学費に出費が多い傾向があります。

 

特に、奥さんがいる場合は、良好な関係(いわゆる、パートナーシップ)を維持するために、継続的な“投資”が欠かせません。夫はどんなに疲れていようが、平日は、家事を分担し、イベントが有れば、雰囲気のあるレストランに連れて行き、花と手紙を渡し、愛をささやく。それにも関わらず、50%以上は離婚してしまうのですから、アメリカ人男性は大変なものです(苦笑)

 

クリスマス当日の夕焼けのワシントン大聖堂

クリスマス当日の夕焼けのワシントン大聖堂

一方、日本はというと、武士道の影響も有り、男性優位が社会にマインドセットされていますので、一般的に、男性の社会的責任が大きく、女性の家庭的責任が大きい社会文化です。女性トップより男性トップが圧倒的に多く、専業主婦の方が主夫より圧倒的に多いことを見れば明らかです。しかし、今後、さらに、日本女性の社会的進出が進み、結果、女性が、男性に、経済的依存ではなく、パートナーシップを求めるようになっていくことが不可避とするならば、日本男性の“投資対象”及び社会的制度構造も変化せざるを得ないでしょう。

以上

日本語表記の過去・現在・未来についての考察~その4~ (H16年北卒 谷前 憩介)

日本語表記の過去・現在・未来 その4

 

近代世界への漢字適応の試練

 

平成16年北寮卒 谷前 憩介

 

 

和製漢語 続々誕生

 

西洋文明の日本への翻訳普及を試みるにあたり大きな役割を果たしたのは、皮肉にも近代世界においては不要とみなされた漢字であった

漢字は一語一語に発音だけでなく意味も与えられた表語文字である。アルファベットやかな文字などの表音文字にはそれ単体に固有の意味は持たないが、漢字であれば適切な語の選択組み合わせによって、多様な概念を表現することが可能だ。

 

たとえば英語のハイドロゲン(hydrogen)はハイドロ(水の)とゲン(生じるもの)という語句から成り立っているが、それを水の素、すなわち“水素”と表現すれば簡潔でおおよその意味は理解できるようになる。

 

福沢諭吉をはじめとする西洋文明の紹介者達は、そんな漢字の造語能力の高さを活かし、西洋文明の諸概念を次々と翻訳していった。こんにち、新聞紙上などで使用されることの多い漢語の大半はこの頃の日本で生まれた和製漢語である。参考例としては、

 

社会(social) 人民(people) 民主主義(democracy) 資本主義(capitalism などなど数え上げたらキリがない。いずれも元となった英語など外国語をその意味に準ずる形で漢字化がなされているのが特徴だ。

 

例えば政治経済や社会科学に関する言葉だけでも、

 

政府 官庁 公務員 共和国 議会 議員 行政 選挙 経済 会社 企業 銀行 証券 金融 機械 計測 共産主義 などなど。

 

その他にも科学や哲学、軍事、医学、文化芸術、教育、おおよそ近代世界を象徴するほぼ全ての分野において、これら新造の和製漢語は大量に発明され、普及・定着した。日本人が明治以降、それまでの自分たちの世界観と全く相容れることのなかった西洋文明の摂取がそれなりに軌道に乗ったのも、これら和製漢語による近代的概念の翻訳が果たした役割は無視できないものがあるだろう。

いや、日本だけにとどまる話ではない。当時東アジアではいち早く近代化にかじを切った日本には、漢字の母国である中国からも多くの留学生が訪れており、これら和製漢語はほぼそのままの意味で中国にも持ち帰られた。また、日本による併合という経緯によってではあったものの朝鮮にもこれら和製漢語は後年浸透した。

例えば中華人民共和国という国名のうち、“人民”と“共和国”は上にあげた通りに和製漢語である。対日関係は最悪と言ってもいい朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)についても、朝鮮以外は上に同じだ。

これは、当時日本で生み出されたこれら和製漢語が、意味の上からでも大した違和感がなく中国人たちにも理解しやすかったという事を意味している。(明治以前の和製漢語は、奉行とか成敗とか茶番とか、字面だけでは中国人にはほとんど意味がわからない。)

互いの不幸な歴史もあって現在日中関係は良好とは言いがたく、中国国内の有識者の間でもこれら日本由来の和製漢語の使用に対し抵抗感を抱く人も少なくはない。

それでも以前とある中国人の識者が和製漢語を「漢字の母国である中国に対する日本からの恩返し」と、前向きに評価してくれたことは記憶に留められるべきであろう。

 

 

■福沢諭吉の名調子 「世界國盡」

 

 音のみを表現する表音文字を持たなかった中国では、仕方なくヨーロッパの国名などを表記するにあたっても無理やりに漢字を当てはめて表現してきた。以前紹介した江戸時代中期の新井白石による「西洋紀聞」にも、欧羅巴(ヨーロッパ) 亜細亜(アジア)などそれら中国由来の漢訳地名がいくつか登場し、そのまま現在でも通用するものも多い。

 

明治2年、福沢諭吉はアメリカの教育者ワルブランクの著書を世界國盡(せかいくにづくし)として翻訳出版しているが、それにあたり大量の漢訳地名を動員した。しかし日本には平仮名や片仮名などのかな文字があるのに、何故わざわざ非漢字文化圏の海外地名を漢字で表現しようとしたのだろうか。例えばわざわざ亜米利加なんて書かずにアメリカでよくはないか?福沢は述べる。

 

「…此書中にはつとめて日本人に分り易き文字を用いるやうにせり。実はいろは計り用いてもすむべき筈なれども、本字(注:漢字のこと)を記して脇に假名(かな)を附れば記憶するに便利なり。(たと)へば南亜米利加のぺいりゆう(注:ペルー)といふ(ところ)(へい)(りゅう)と記してあれば、勘平の平と揚柳の柳なりと(ムネ)に記しておぼへ易し。」

 

いきなりカタカナ語で国名を覚えさせられるより、日本人に馴染みの深い漢字を用いたほうが覚えやすいというわけだ。この調子で、例えばインド関連だけでも印度(インド)、雁寺洲(カンジス)、軽骨田(カルカッタ)、など楽しい地名が並ぶ。傑作は荒火野(アラビア)だ。

 

現在では、さすがにアメリカをわざわざ亜米利加、フランスを仏蘭西などと書くことも一般的にはなくなったが、例えば日本とアメリカの貿易摩擦なら日米貿易摩擦、フランスに渡ることなら渡仏というようにすっきりした表現が可能なので、これら漢訳地名の恩恵は無視できないものがある。

 

また、注目に値するのは福沢諭吉の文体だ。とにかく啓蒙思想家として平民にもつとめてわかりやすく西洋を紹介しようとした福沢は、ここで庶民にも馴染みの深い五七調を使った。例を挙げてみよう。

 

「頃は安政五年の秋、十三州の名代人四十八士の連判状、世界に示す檄文に英吉利(イギリス)王の罪を責め、自ら建てし合衆国(中略) …こころに誓ふ國のため、失ふ生命得る自由、生理屈して生きんより、國に報る死を取らん、一死決して七年の、長の月日の攻め守り、智勇義の名を千歳に、流す血の河、骨の山、七十ニ戦の艱難も、消て忘る大勝利…」

 

 アメリカ独立戦争の記述である。赤穂浪士の討ち入りではない。アメリカ独立戦争である。

 

以前も記した通り福沢諭吉は漢字制限論を主張したこともあったが、それでも人民に益ありと判断すれば漢字も効果的に用いてみせた。これは福沢諭吉がとにかくわかりやすさを心がけていたからであり、後年ややイデオロギッシュな傾向を帯びるようになる漢字制限論の展開とは一線を画すべきかもしれない。

 

 

■要請 養成 陽性 妖精

 

開化期に漢字の果たした役割は広く認められなければならないが、しかし、それがかえって日本語を更に面倒くさい言葉にしてしまった部分があることもまた事実である。

明治以降に短期間のうちに和製漢語は次々と生まれ順次社会に広まっていったが、それらの多くは元となった西洋語の意味を漢字に翻訳して表現することが重視され、発音に関しては二の次であった。その結果、同音異義語が大量発生したのである。

 

たとえばカテイという発音に対しては家庭に過程に仮定に課程、シンカなら進化に真価に深化、カンソウなら完走に感想に間奏に乾燥…、これもあげたらキリがない。

 

これらの漢字は中国ではそれぞれに発音方法が異なるため日本のように同音異義語として混乱が生ずることが少ないが、中国語と比べ発音に制限の多い日本語ではどうしても同じような発音になってしまう。

こういう同音異義語が会話中に出現した場合、我々日本人は前後の文脈から判断して「ああ、この場合はコレだな」と目星をつけて判断する、というようなことを無意識化に行っているが、それでも市立と私立のように紛らわしい場合は、ワタクシリツとかイチリツなんて変な読み方をしたり、場合によっては文字に起こして説明する必要も出てくる。

これはよく考えたら変な話しである。いかなら言葉も、まずは声に出しての発音が先にあり、文字はあくまでおまけである。世の中に固有の文字を持たない言語はいくらでもあるが(むしろ固有の文字を持つ言葉のほうが少ない)、固有の発音を持たない言語は多分ない。そういう意味では「文字に起こさないと本当の意味が理解できないことがある」という日本語の特報は極めて特殊、今風に言えばガラパゴスなのだ。後に詳しく紹介するが、カナモジ論者が批判したのはまさにこの日本語における文章第一・発音二の次な空気であった。

同音異義語にかぎらず、漢語の中には字を見ないことには意味が理解できない言葉が少なくない。例えば和敬塾にしても、いきなりワケイジュクと言われた所でそこから「平和の和に尊敬の敬」という字を瞬時に理解する人はほとんどいないだろう。

 

 

■サイゴウ ヲ シサツ セヨ

 

明治維新後、急速な近代化を遂げつつあった当時の日本であったが、その道行は決して順調ではなく、様々な階層からの不満や反発は絶えなかった。

庶民からしてみれば期待していた世直しの実感は得られず、租税と兵役の負担が重くのしかかった。いにしえの天皇中心の律令国家への復古を夢見た国学思想家たちからしても、明治維新後誕生した近代政府は自分たちの理想とはほど遠いものだった。

そして、明治維新において主導的な役割を果たし、自ら血を流してまでこの空前の大革命に尽力した武士階級は、その特権的地位を失い没落した。

 

社会各層からの不満もあって、明治初期は各地で不平士族による小中規模の反乱が頻発した。その中でも内戦のレベルに達したのは、最大にして日本最後の大規模内乱となった西郷隆盛による西南戦争(明治10年)であろう。

 

真偽のほどはよくわからないが、西南戦争の有名なエピソードに電信に関する話がある。

 

幕末に日本に紹介された電信技術は、当時最新の高速情報伝達技術として次第に大都市間に普及しつつあった。原理としては文字を一語一語電気信号に変換して送信し、受信側が文字に再変換するという簡単なものであるが、Eメールの遠いご先祖である。電信技術を用いた電報は、現在は情報伝達手段として使われることは殆どなくなったが、祝電や弔電など一種の儀式慣行として残っている。

 

ところが、電信技術を日本に適用するにあたっては一つ厄介な問題があった。アルファベットを用いるヨーロッパと違い、日本語は既に述べた通り基本的に漢字抜きで文章を成り立たせることは難しい。しかし、数千数万ある漢字それぞれを電気信号に変換することなど、当時日本で使われていたブレゲ指字電信機では不可能であった。

 

ブレゲ指字電信機: http://www.ntt-east.co.jp/business/magazine/network_history/05/

 

例えば、「大学に無事合格した」という内容を送るにあたっては「ダイガクニ ブジ ゴウカク シタ」という形でしか送信することができなかったのだ。

 

西南戦争勃発前夜、故郷の鹿児島に下野し後進の育成にあたっていた西郷隆盛を政府は危険視し、西郷の動向を監視するべく密偵を鹿児島に送り込んでいた。しかし密偵は西郷の元の過激派学生らに捉えられ、厳しい尋問に末、政府の勅命を記したある電信文書の存在がクローズアップされた。

そこには、サイゴウ(西郷) シサツ(視察)の文字が。学生たちはいきり立った。

 

「西郷先生を刺殺せよだと!?」

 

西南戦争が始まった。

 

数万もの士族たちで構成された西郷軍は、高度に統制された農民あがりの徴兵者からなる新政府軍に結果的に破れ、中世から近世にかけて700年続いた侍の時代は、ここに本当の意味で終焉を迎え、この日本最後の内戦は後に映画「ラストサムライ」の元ネタになった。

戦前を代表する大ジャーナリストにして在野の歴史家でもあった徳富蘇峰(1863~1957は、安土桃山時代以降の日本近世史を綴った全百巻の大著「近世日本国民史」を、西南戦争で締めくくっている。

 

西南戦争の後にも小規模のテロや暗殺は絶えなかったが、それでもこんにちに至るまで国を割る規模の内戦が起こっていないことを考えると、西南戦争こそが近代日本が統一国家として完成する上での最後の試練であったとも言えなくもない。

しかし、その陰に真偽の程は不明だが同音異義語の誤解、という日本語の構造的問題を巡るエピソードが付されているという事実は無視できない。それはその後の日本の歩みと日本語の関係を考える上で示唆的ですらあった。

 

(続きます)

ワシントンD.C.より (H15北卒 寺田一智)

現在、ワシントンDC(米国)に、住んでいます。ワシントンDCは、国際色豊かな、国際政治のハブです。黒人が、60%以上を占め、50民族以上の移民が住んでいる、リベラルな街です。また、政府要人、研究者、国際機関職員、ジャーナリスト、民間会社から派遣された人たちの頭脳集団の街でもあります。そんな中にいると、和敬塾で飲んだくれて体育祭に明け暮れていた、私まで、賢くなった気がして、面白いものです(苦笑)

 

私は、現在所属する、アメリカン大学院で、中国外交の研究に励んでおりますが、DCでは、中国の存在の大きさを強く感じます。非民主主義の経済成長という、アメリカには、理解しがたい経済理論、台湾海峡危機に代表される、海洋政策の衝突と、中国はまさに、良くも悪くも超大国です。日本を離れると、不思議に、母国の事を想うものです。日本は、中国の台頭、北朝鮮という暴れん坊、韓国・ロシアとの不和と、日本を取り囲む状況にあり、憂慮せずには、いられません。

 

生き馬の目を抜くDCで、生き残っていくことは、並大抵の事ではありません。研究者は、もろに時代の趨勢に翻弄されます。例えば、以前の職場である、シンクタンクでも、中国研究から、流行のミャンマー研究が台頭し、プロジェクトの資金を自分で集めてこないといけない為、研究者は、大変です。国際公務員も厳しいです。国連や世銀に勤めている同窓生の女性たちは、聞こえはいいものの、現実は、1年更新の契約社員です。日本の武士道に起源を成す、家族的企業制度は、純日本人を好む社会風土とリンクし、良くも悪くも、日本人の国際化の足枷になっています。将来性で、新卒一括採用され、会社にこき使われるものの(苦笑)、定年まで安定の日系企業は、学歴と職歴の積み重ねによって、よりよい職業を勝ち取っていかなければいけないアメリカ企業と比べて、魅力的です。日本の終身雇用制度を、懐かしく思う今日この頃です(笑)

 

それでは、またお会いしましょう。

H15北卒 寺田 一智

日本語表記の過去・現在・未来についての考察~その3~ (H16年北卒 谷前 憩介)

日本語表記の過去・現在・未来 その3

 

明治維新と漢字を巡る運命の変転

 

平成16年北寮卒 谷前 憩介

 

日本に大陸から漢字が伝来し、本格的に使われはじめたのは4世紀頃という意見もあれば紀元前からという意見もあり、まだまだはっきりしない。ただ確かなのは、日本人は異国の文字である漢字を正当な文字としてありがたがって使ってきたということである。

 

日本語と中国語では文法も発音も全く異なるが、しかし漢字以前にはまともな文字を持っていなかったところに中国から漢字がやってきたものだから、どうにかしてでも日本語は漢字で書き表されねばならなくなった。そのうちに平安時代の頃には漢字を加工する形で我が国固有の表音文字であるひらがな・カタカナも生まれたが(最近は古朝鮮文字が起源という説もあり)、これらは漢字と比べると一段下等な文字として軽く見られ、公式の文書には相変わらず漢文が使われ続けた。かなとは假名、つまり仮の字であり、一方で漢字こそは真名(まな)、本当の字とされた。

学問とはすなわち膨大な量の漢字を覚え、いにしえの聖人達の教えを記した異国(中国や天竺)の古典を学ぶことであった。前回で触れたように、賀茂真淵や本居宣長らの国学者はそのように異国の文字や思想をむやみに尊び、日本本来の精神性を軽んずる風潮を批判したが、江戸時代の中頃までは世の中は概ねそんな感じであった。

 

ところが、幕末にもなるといよいよ近代合理主義で武装をした西洋人たちが圧倒的な科学技術とその副産物である軍事技術を背景に東洋まで本格的に進出してきた。

漢字の本場であり、世界の真理について語り尽くした(はずの)いにしえの聖人たちのふるさとであったはずの中国(清王朝)は、いともあっさりと西洋列強に軍事力で敗北し、国を食い荒らされた。

中国歴代王朝で伝統的に行われてきた官吏登用試験“科挙”は、人類の歴史上もっとも公正で、もっとも難易度の高い試験であったという。受験者は蛍の光窓の雪、何年も場合によっては何十年もかけて四書五経をはじめとする膨大な量の古典を覚えねばならず、晴れて合格し高級官僚となる資格を得た者たちはさながら人間図書館のごとき比類なき知的エリートであった。

ところが、そういうエリート達がいくら膨大な古典や漢字の知識を駆使して美しい詩文や高度に哲学的な論文をしたためようとも、西洋で発展した近代合理主義の前には、ほとんど無力であった。“教養”というものの質が根本的にそれまでと変わってしまったのである。

 

もはや、論語を素読し漢字の読み書きを学ぶような旧来の学問だけでは西洋には太刀打ち出来ない。というよりも、漢字などいくら覚えたところで西洋に勝てぬのなら、いっそのこと学ぶだけ無駄な漢字など廃してしまえばいいのでは……?

 

■前島密と福沢諭吉  幕末明治と漢字制限論の興り

 

明治維新後に政治家として活躍し、郵便制度の確立に尽力したことで知られる前島密(1835~1919)は、江戸幕府が滅びる直前の慶応2年、当時仕えていた最後の将軍徳川慶喜にあてて「漢字御廃止之議」という建白書を提出した。内容としては

 

・日本人は学問といえば漢字を学ぶことばかりに追われており、一般人は知識から遠ざけられてしまっている。

・漢字や中国を崇拝するばかりで愛国心は薄れ、また科学技術など実用的な学問を軽んじる事で西洋の先進文明からも取り残されてしまう。

・今すぐに漢字を全廃することなどできないしその必要のないが、最終的には漢字の使用をやめることを目標と定め、実行とていくことが必要である。

 

漢字廃止というといかにも極論に聞こえるが、こう見てみるとその意見には当時の時代にあっての危機感や前島密の誠実な人柄がよくあらわれている。結局まもなく徳川幕府は終わりを迎えたが、前島密は明治新政府に仕えた後も同様の提言を続け、明治33年(1900年)には文部省に発足した国語調査委員会の代表となった。

 

明治維新後、「学問ノススメ」などで近代日本の思想形成に絶大な影響を与え続けた啓蒙思想家にして慶應義塾大学の創立者、一万円札でお馴染みの福沢諭吉も、前島密と同様の主張を維新直後の明治六年(1873年)、「文字之教」という著作の中で説いている。漢字を覚え、かなと交えて文章を巻くことは非常に不都合であり、いずれは漢字は廃されるべきである。しかし即座に廃止することは出来ないので、今のところは可能な限り難しい漢字をむやみに使用することのないよう心がけつつ、時勢を待たねばならない…。

 

http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_title.php?id=73%7C

 

福沢諭吉は、自由平等民主主義に資本主義、およそ現在の我々をとりまく社会思想のほとんどを一人で網羅していたような日本思想史上の一大巨人であったが、そんな福沢がかなり早い段階から漢字制限を主張していたのは興味深い。おそらくは、漢字の母国である中国の惨めな現状を鑑みてのことでもあったのだろう。中国においても、科挙制度の廃止や漢字字体の簡略化、表音文字の導入の試みなどがなされ始めていた。

 

 

■それでも 漢字を使わざるを得ない

 

このように明治期に盛り上がりを見せつつあった漢字制限であったが、むしろ明治期に入ってからそれまで以上に漢字の必要性が増す、という奇妙なねじれ現象が起こってしまった。

 

ここで注目に値するのが、時代はやや遡るが江戸時代中期の1728年に漂流の末ロシアにわたった鹿児島の少年ゴンザのケースだ。

11歳の少年であったゴンザは父の手伝いで見習い船乗りとして鹿児島-大阪間の航海に参加していたところ、大嵐にみまわれ船は難破、漂流の末カムチャッカ半島にまで辿り着いた。その後ロシア本土のペテルブルグに送られたゴンザはロシア語をマスターし、アカデミーで学びながらロシア人学者らと共に露日辞典の編纂に関わることとなる。まるで漂流の末に米国に渡ったジョン万次郎(郷土の偉人です)のような人生だが、万次郎とは違い日本へ帰ることなく、21歳の若さでロシアの土となった。ゴンザの編纂した「新スラヴ・日本語辞典」は現在の日本でも詠むことができる。

 

短期間でロシア語をマスターしロシア人達をして「天才少年」と驚かせたゴンザであったが、残念ながらもともと無学な片田舎の少年であったため、漢字漢語への深い知識など無論持ちあわせてはいなかった。そのためか、彼の編纂した辞典や単語集には我々がみるとどうも冗長でしっくりこない部分がいくつか見られる。

 

たとえば神罰という言葉を彼はバチカブルフォトケン(罰かぶる 仏の)と記した。温泉ツチノナカンユ(土の中の湯)内蔵ウチノワタ(内の腸)、貧血チガスクナカ(血が少なか)、歴史ムカシノコト(昔のこと)、大都会フトカクニ(太か国)、といった具合。いや、確かに意味は合っているのだが。ちなみに女郎屋ワルカコトスルトコロ(悪かことするところ)だったようだ。まぁ、少年だったんだもの、仕方ないね。

 

ゴンザの残した辞典は現在では当時の鹿児島弁などを知る上の貴重な資料となっている。

 

仮に、仮にゴンザが漂流前に漢字の知識を叩きこまれていたら、もう少ししっくりくる訳語を用意出来たであろう。ここから明らかになっているのは、日本語は漢語抜きにはどうもしっくりこないという厄介な日本語の宿命だった。

 

千数百年ないし二千年以上の昔から漢字が中国の先進文明と共に日本に定着して以来、日本人は高度で複雑な概念を表現するためにずっと漢字や漢語に頼りっぱなしであった。もし、漢字の伝来がもっと遅いかもしくは起こらなかったとしたら、日本古来のやまと言葉は独自に発展し、それら複雑な概念をも表現できるようになったかもしれない。文字だって漢字の影響なしに独自に発明したかもしれない。

 

しかし、そうはならなかった。仮に漢語を一切抜きにしで文章を構築しようとすると、とたんに日本語は妙に脱力して冗長になってしまう。政府をマツリゴトスルトコロ、とか二酸化炭素をスイノモトフタツクッツイタスミノモト、などと表現せねばならなくなった日には……。

 

あるいは、ゴンザやジョン万次郎のように日本人全員が短期間で英語をはじめとする外国語を完璧にマスターしてみせれば西洋文明の摂取もより容易になったであろうが、そんなことは絶対に不可能だ。ならば、西洋の文明を日本語として翻訳していくに他はない。そして、翻訳には漢字が不可欠であった。

 

こうして、日本人は西洋文明を次々と漢字化して翻訳する道を選んだ。その先頭に立ったのは、漢字制限を主張したはずの福沢諭吉であった。

 

(続きます)

 

 

 

 

日本語表記の過去・現在・未来についての考察~その2~ (H16年北卒 谷前 憩介)

日本語表記の過去・現在・未来 その2

 

江戸時代に於ける国語改革思想

 

平成16年北寮卒 谷前 憩介

 

■新井白石とカナモジ論の萌芽

 

日本語表記を巡る議論や改革運動が国を挙げて本格的に行われるようになったのは日本が近代国家としての歩みを始めた明治時代以降の事であったが、近代国家移行への準備期間でもあった江戸時代に於いても、既に幾人かの知識人達の間では国語改良に関する私見が述べられ始めていた。

 

新井白石といえば江戸時代中期を代表する政治家にて当代随一の大学者として有名だが、1708年、日本にキリスト教布教のために密入国を果たしたイタリア人宣教師シドッチに対する尋問により得られた西洋社会に関する知見をまとめた書『西洋紀聞』の中で、表音文字であるアルファベットの便に注目している。西洋ではわずか二十数字程度の文字さえ理解すれば全ての用に応えられるのに対し、我が日本では幾万もの漢字を覚えねばならず甚だ不便である、と。

「其字母、僅に二十余字、一切の音を貫けリ。文省き、義広くして、其妙天下に遺音なし、其説に、漢の文字万有余、強識の人にあらずしては、暗記すべからず。しかれども、猶を声ありて、字なきあり。さらばまた多しといへども尽さざる所あり。徒に其心力を費すのみといふ。」

白石はこう言うけれども、アルファベットのみを知っているだけで欧米語は正確に表記できるわけでは無論ない。アルファベットは一字一字に意味を持たない表音文字なので、それとは別に各単語の綴りの習熟を要する事は、受験勉強で英単語を豆単片手に必死で暗記した経験をお持ちに皆様なら容易に理解できるであろう。実際、杉田玄白らによってオランダの医学書ターヘル・アナトミアが『解体新書』として1771年に邦訳が遂げられた際も、翻訳を担当した前野良沢は、作業開始当初は基本的なアルファベット程度しか知らず、単語の綴りも意味も理解できなかったために非常な苦労を強いられたという話は有名である。(その後前野良沢は「蘭化」(オランダ語のバケモノ)と称するほどにオランダ語に習熟したが。)

 

しかし、出版や印刷についてはどうであろうか。文書を大量に印刷・発行するには活版印刷の技術が不可欠だったが、漢語の場合は数万に及ぶ漢字の版を用意する必要があるのに対し、アルファベットであれば大文字小文字や数字、記号等を含めても漢語と比べても非常に少ない手間で事足りる。子供達に漢字の読み書きを覚えさせる労力も無視できない。新井白石の着目した漢字の不便は、彼の没後百数十年を経て明治期に突入した後に本格的な実感となって日本人にのしかかる事となるのであった。

 

■漢字すなわわち“からごころ” 漢字批判と近代ナショナリズムの萌芽

 

次に注目すべきは江戸中期に活躍した国学者の賀茂真淵である。古事記や万葉集など、日本人としての精神的源流を探る国学者であった賀茂真淵にとって、仏教や儒教など外来の思想とともに日本に流入してきた漢字とはいかなる意味を持つ存在であったのか。

『国意考』(1769年)に於いて彼は日本の古来の神道思想の純粋さを汚す存在として漢字を批判し、漢字をありがたがる儒学者らも批判した。これは朱子学など儒教思想を統治の中核に据えた江戸幕府に対する批判とも捉えかねないものあった為に少なからず論争の火種となる一方、後の明治維新から近代日本のナショナリズムに連なる国家思想の原点になったとも言える。

賀茂真淵の弟子であり最も著名な国学者となった本居宣長は、儒教や仏教などの外来思想を日本人本来の精神的あり方を歪めるものとして“からごころ”と呼び批判したが、このからごころという言葉、漢字で書けば漢意となる。

一般的には、「漢字を廃止してしまえ。」などと言う人いると、「あいつは日本の麗しい伝統を否定する西洋かぶれの非国民だ。」などと思われることが多いかもしれないが、こうやって見てみると、むしろ漢字の批判や否定は日本本来の精神的伝統(?)なるものの復活を唱える愛国者の側に属する見解であったのだと言えなくもない

賀茂真淵は、国意考に於いて漢字はとにっかう文字数ばかりいたずらに多く中には殆ど使わないような覚えるだけ無駄なものも多い、と読みも書きも無限に増殖していく漢字の持つカオスさを批判する一方で、新井白石と同じく表音文字に対する期待をのぞかせてもいる。

「然るを天竺には、五十字もて、五千余巻の仏の語を書伝へたり。ただ五十の字をだに正しければ、古しへ今と限りなき詞もしられれ伝へられ侍るるや。」

 

賀茂真淵の中にも見られたカナモジとナショナリズムを巡る問題は、その二百年あまりの後に悲惨な形で顕在化する事となる。

 

 

 

さて、そして時代はいよいよ幕末へ。もはや西洋列強との国力・科学力の差は如何ともし難いものとなり鎖国体制は終わりを告げ、西洋からは最新の技術や思想がアルファベットの洪水と共に大挙して日本に押し寄せた。

賀茂真淵らに始まる国学の思想はやがて天皇を中心とした律令国家の復活への期待となり、それは幕末に於ける西洋近代思想との出会いを経て、天皇を国の元首に置く近代国家の確立の原動力ともなって行く。かくして700年に及んだ武士の時代は終りを迎え、日本は明治維新とともに近代国家としての歩みを始めることとなるのであった。

 

それはまた、欧米との対峙を強いられた当時の日本人達にとって、「日本語をどのように近代世界に適合させていくか」という苦闘の歴史の本格的な始まりを示すものでもあった。

(続きます)

日本語表記の過去・現在・未来についての考察~その1~ (H16年北卒 谷前 憩介)

 日本語表記の過去・現在・未来 ~カナモジカイ・一発変換キー・キラキラネーム~

 

平成16年北寮卒 谷前 憩介

 

先日、インターネット上をいつものように巡回に勤しんできた所、とあるウェブサイトの存在が某掲示板にて話題になっている所に出くわした。何でも、文章を入力する事で投稿者の文章力を機械的に解析してくれるのだと云う。

 

文章を解析?名文・悪文をコンピューターが判断?ただでさえ難解と言われる日本語を、一介のウェブサイトがわざわざ無償で分析してくれる?そもそも、そんな事が技術的に可能なのか!?色々疑問が浮かんだは浮かんだけれど、ともかく件のウェブサイトを実際にいじってみる事にした。

 

「文体診断ロゴーン」  http://logoon.org/

 

サイトの説明によると、投稿欄に入力した文章を句読点数や平均文長、特殊用語出現率など様々なパラメータを基に解析を行い、文章力の評価を行ってくれるのだと云う。更にそれにとどまらず、64人の作家の文章のデータベースを基に、投稿者の文章がその中の誰に似ているか、又は似てないかまでをも調べてくれるというなかなか楽しい機能まで実装されていた。データ基となった作家が64人と少ないためそこまで精度の高い分析とはならないが、それでも「あなたの文章は夏目漱石に似ています。」とか「川端康成に似ています。」とか言われて気分が悪くなる人もあまりいないと思われる。太宰治は…どうなんだろう。

 

そこでこれまで各所で書きためてきた日記やら何やらを何回か投稿してみたところ、面白い傾向が浮かび上がってきた。

 

 

一致指数ベスト3

一致指数ベスト3

 

どうも、自分の文章は64人の作家陣(何故か池田勇人や吉田茂もいます)の中では「ごんぎつね」でお馴染みの新美南吉には似ておらず、逆に評論家・作家の紀田順一郎に似ていなくもない、という結果がかなりの高頻度で導き出されてきた。その他の評価につぃては文章が長い・硬いと散々なもので、「個性的」とか「表現力豊か」とかそういうファジーな評価はさすがに鵜呑みには出来まい。

 

それにしても、紀田順一郎か…紀田順一郎ねぇ。ミステリや幻想文学の研究で有名な人で、その他にも日本近代史や世相史に関する著作も多数発表している凄い人だという事くらいは知っているが、ミステリにも幻想文学にもあまり個人的に詳しくないためその辺りの業績についてはよくわからない。

 

しかし、今回、こういう「日本語の文体を機械的に解析するウェブサービス」という場面に於いて「紀田順一郎」という名前が出てきたことには、非常に運命的というか必然的なものを感じてしまった。というのも、紀田順一郎は元々作家となる以前は商社勤めのサラリーマンをしており、事務手続きにおける日本語表記の問題について昔から高い関心を持っていた人物だったからである。

 

自分が唯一読んだ事があり、かつ現在も所蔵している紀田の著作はその名もズバリ『日本語大博物館』。幕末明治期から現在(90年代中盤あたりまで)に渡る日本語表記の近代化の歴史を、思想史・技術史の両面から追った非常に興味深い内容の本だった。自分が所有しているのは2001年発行のちくま学芸文庫版だが、原本は1994年にジャストシステムから発行されている。そう、マイクロソフトワードが普及する以前は日本語ワープロソフトの代名詞的存在であった「一太郎」シリーズを開発したことで知られる、あのジャストシステムからだ。

 

90年代から00年代初頭にかけて青春時代を過ごした自分達の世代にとって、コピー機もワープロソフトによる日本語文章作成も物心ついた時からほぼ当たり前の光景だった。いや、保育園児くらいの頃に保母の先生によるガリ版印刷を手伝わされた記憶がうっすらあるが、それでも小学校の頃にはクラスの連絡表も先生がコピーやワープロでちゃっちゃと作成していた。

 

しかし、これほど日本語表記のハードルが低くなったのは実はほんの最近の事で、ワープロ普及以前のオフィス事情は現在からは予想もつかなかったようなものであったらしい。以前、職場の書類庫で30年ほど前の伝票やら見積書やらを偶然覗いた事があったが、伝票の印字は恐らく処理の煩雑さを嫌ってか全てカタカナで読みにくく、数十行もの項目に渡る詳細な見積は、全て手書きであった。悪筆で注意力散漫、誤字脱字も多い自分にはとても無理だ、見ているだけで血の気が引いた。

 

そういう事もあってか、財界人の間では「日本語は漢字が多くタイプライターも使えない、英文と比べて事務手続き上とにかく非能率だから、漢字を全廃してカナ文字のみにしてしまえばいい。」という意見がかなりの支持を集めていた時期もあったのだと云う。中には、「いや、カナ文字ではなくローマ字に統一せよ。」とか「いやいや、いっその事日本語そのものの使用をやめて英語やフランス語を公用語にしたらいい。」という、まぁ今の我々からすればそんな莫迦なと頭を抱えたくなるような議論も行われていたらしいのである。

 

現在、日本語表記は高度なOA化やインターネットを利用した情報化の恩恵により昔と比べても明らかに容易になった感があるが、同時に時代に応じた新たな若干の混乱の萌芽もまた見受けられる。傍目から見たら非常識で無理な当て字で子供に名付けるいわゆる“キラキラネーム”などはその典型だろう。

 

本稿では、紀田順一郎の『日本語大博物館』等を参照しつつ、近代以降の日本語表記に於ける興味深いトピックをいくつか紹介していきたい。といってもこれら国字問題は非常に広範な内容の議論が今でも続いているため、専門家でも無い自分に語れる範囲などたかが知れているのは目に見えているが、先述した“運命”〈必然〉に何かグッと来るものを感じてしまった以上、納得の行くまで書き綴っていきたいと思っている。

 

(続きます)

日本平ホテルのご紹介~平成18年北卒 押見祐輔~

日本平ホテルのご紹介 ~平成18年北卒 押見祐輔~

 

平成18年北寮卒の押見祐輔と申します。

今更でお恥ずかしい限りですが、先日卒塾後初めて塾友会中部支部会に参加させていただき、懐かしき顔と偉大な先輩方の嬉々とした表情を拝見しました。塾友会活動に微力ながらも協力させていただければと思い、寄稿させていただきます。

 

私は昨年7月、約6年半お世話になった会社を退社し、現在地元静岡県静岡市清水区にある「日本平ホテル」というホテルでフロント係として働いております。

今までベル係、フロント係と経験してまいりましたが、この仕事のやりがいは何と言ってもお客様との距離が近いということ。

チェックアウトの際、笑顔で「とてもくつろげたよ。」「友達にも紹介するよ。」というお客様の一言が聞けた時にはこの仕事の醍醐味を感じます。

その反面、お客様ごとに要望は多岐にわたりますのでその要望にどこまでお応えでき、かつどうやって良い意味での驚きを与えられるか、日々試されているのも事実ですので身が引き締まる思いです。

 

 

H18北卒 押見

H18北卒 押見

 

当ホテルは1964年に「日本平観光ホテル」として営業を開始いたしました。

2005年に誕生した政令市「静岡市」の「日本平公園基本整備事業」の一環として静岡市と計画に着手し、そして2012年9月全面建て替えを致しました。

幸運なことに私はそのオープニングスタッフとして参加させていただくことができ、現在に至ります。

 

日本平ホテル エントランス

日本平ホテル エントランス

当ホテルの魅力は、かつて日本観光地百選第一位にも選ばれた景観です。

海抜267Mからの壮大な風景をご覧いただけます。

眼前に広がる清水の港町と駿河湾、そしてその約50㎞先には世界遺産に登録された霊峰富士が悠然とその姿を現します。

 

 

富士山をのぞむ

富士山をのぞむ

 

「風景美術館=日本平ホテル」のキャッチフレーズにふさわしい景観がすべてのゲストをお迎えいたします。

 

 

部屋 日本平ツイン 

部屋 日本平ツイン

新しくなって1周年を迎えた当ホテルはこれから真価を問われる時期を迎えています。

これまでも、これからも最高のおもてなしをご来館いただくすべての皆様にお届けできるよう、日々努力してまいります。

以上

28歳の社会人からの、現役の和敬塾生へのメッセージ

平成25年9月23日

 

28歳の社会人からの、現役の和敬塾生へのメッセージ

 

H19年度(H20年) 北寮卒

中本 剛史

平成25年9月23日

 

昨年10月にそれまで4年半務めた会社を退職し、新しく会社を設立しました。それまでは、超がつく程の大企業でサラリーマンをしていましたが、実家の家業の経営が厳しく、力になれるのが私しかいなかったため、今しかできない親孝行、そしてそれは今やらないときっと将来自分は一生後悔するであろうと思って、「会社を辞める」という決断を致しました。

結果、決断後に父親の会社も倒産してしまったので、第二創業に似た形での会社設立となりましたが、事実上ゼロからの立ち上げでした。今は父親と二人三脚で事業をしておりますが、この一年の生活は計り知れない程の未曾有の苦難の連続で、それでも家族の絆を失うことなく希望のある生活を送ることができているのは、本当に言葉にできない幸せで、それも色々な面で支えてくれた多くの方々のおかげだと思っています。

28歳にしてこうした生きるか死ぬかの極限的な生活を送るとは夢にも思ってもいませんでしたが、若いうちにこうした体験ができたことは貴重なことでした。安定した大企業に勤めていたことで失いかけていたハングリー精神や危機意識、スピード感のある仕事を体得できたのは今では大きな財産です。

翻って、世の中のうまくいっていない会社の多くは、会社の経営状況や自分の生活に対する危機意識やハングリー精神というのが、働く従業員の間で組織として失われつつあるところが多いのではないでしょうか。巨額の赤字を出しても自分は大丈夫と思っていられるのも大企業だから許されることで、今や大企業もそうこう言っていられず危ういと叫ばれていますが、中小・零細企業の経営者は昔から、いつ会社がつぶれてもおかしくないという危機感を常に抱いていますし、安定に恵まれていた人がそうした危機意識を忘れていただけに過ぎないのです。

日本の高度経済成長期はヒト・モノ・カネも十分になかったにも関わらず、結果大きな経済発展を遂げました。私はその時代には生きていませんが、モノが足りなかった時代には多くの人々にどこかハングリーなところがあったのではないでしょうか。同時に、他の人が満ち足りていなければ、足りないところを補い合うという相互扶助の人間関係もそこで生まれていたのではないかと推察します。

一方で、現代はあらゆるものが満ち足りている。モノも情報も、選択の自由も生活環境の質も。それなのに、どこか何かがおかしい。考えられない事件・事故が頻発する。鬱やひきこもりの人口が増加する。晩婚化が進む。今では20代30代の未婚の男女で、恋人がいない人は60%以上にも上るそうです。

もちろん現代のような飽和の時代に、ハングリー精神を各人が持つというのは難しいかもしれませんが、だからこそ、今の我々が失ってはいけないのは、私が思うに、人やモノへの興味・関心だと思います。自分は何も困っていないから他人はいいや、自分の仕事は終わったからお先に失礼します、ではなくて、周りを見渡し、「最近忙しそうだね?どこか元気ないね?飯でも食いに行くか?」といったようなほんの少しの気遣いや言葉が言えるようになることが大事なのではないでしょうか。こうしたことは余裕のない人はできませんから、余裕のある人こそが行うべきであり、それができる人が21世紀のこれからの時代、上に立つリーダーになれる人だと思います。パソコン業務が増え、仕事も細分化・分業化・デジタル化されていく今日の社会において、組織が活力を取り戻していくためには、こうした周囲に気配りや配慮をできる人間を増やしていく必要があると思いますし、そういう人が増えることによって今よりも明るい未来や社会が実現するのではないでしょうか。

同時に、そうした恩を受ける側の人間も、義理の心を忘れてはなりません。自分が辛い時、困っている時、助けてくれた人へいつかは恩返ししなければなりません。その恩返しはその人に直接することがすべてではなく、受けたものと同じ恩を、自分が他の人にすればよいのです。こうしたことは、先輩にメシを奢ってもらい、後輩にメシを奢るということが生活に染みついている和敬塾生にとっては理解しやすいことかもしれません。

以上述べてきたように、こうした人やモノへの興味・関心、そして受けた御恩を何らかの形で報いようとする義理の心こそ、和敬塾における共同生活で養ってほしい素養です。また、和敬塾はそうした素養を身につけられる最高の環境にあると思います。現役の学生諸君においては、ぜひ飲み会や多くの行事を通じて、まずは同居する仲間に対して興味を持てる人間になってほしいと思います。

2020年のオリンピックが東京で開催されることが決まりました。被災地の復興、そして東京オリンピックと、国民がまた一つ希望を持って団結することができる千歳一隅のチャンスの到来です。人に興味を持つというのは、言うなれば当たり前のことかもしれませんが、それができていない人が多いのも事実です。高度経済成長期のような20世紀型のハングリー精神はなくても、21世紀に生きるリーダーに必要な、人への興味・関心、そして義理の心を持った和敬塾生とともに、私も一事業家として、これからの素晴らしい社会を将来共に作り上げられたらと願っています。

 

以上

~時代の流れとともに~ H21年度北寮卒の中本達也

【時代の流れとともに】

 皆様はじめまして。H21年度北寮卒の中本達也と申します。
H21年卒ということは、現在25,6歳で、社会人3年目を過ごしている身であります。
塾友会HPに掲載するため「自由なテーマで」ということでお題をいただきました。

 お恥ずかしながら私は、卒塾以来塾にも顔を出さず現在の塾の様子も詳しくわかりませんが、
そんな私でも良ければということで、駄文ではありますが綴ってみたいと思います。

 私は、和敬塾生活、大学生、社会人生活を通じて決して多くの人と出会って来たわけではありませんが、
出会う人と対話する中で「時代の流れ」というものを感じることが多くあります。

 特に40代、50代の人とお話させていただく時に、私より30年近く離れているのに同じ時代を生きていることに驚きと喜びを覚えることが多いです。

 彼らが私と同じ年齢の時代(1980年代)はちょうどバブル景気の真っ最中ではなかったでしょうか。お話を聞くとそれはもう今では到底考えられない時代だったそうです。特にバブル景気の象徴とも言えるディスコの雰囲気を味わいたく、大学生の頃に六本木にある「マハラジャ」によく通いました。その年代の人達と共にお酒を飲みながらバブル景気を追体験しようとしましたが、やはり実体験に勝るものは無いと感じました…。

 その時代から30年近く時の流れが過ぎた今、コンピューターや携帯電話に代表される情報技術革新が起こり、情報アクセスやオンライン・コミュニケーションが普及する一方、ゆとり世代の出現や法規制の強化など、時代とともに社会常識も変化しています。

インターネットバブルで情報サービス産業が発達し日本経済が勃興したものの、リーマンショックに代表される金融恐慌で世界的に見ても景気は落ち込んでいると言われます。失われた20年ですっかり意気消沈した日本経済もようやく腰をあげるのではないかと期待していますが、国の債務残高、高い自殺率、自然災害やそれに起因する諸問題等、この国の将来は決して明るいとは言えません。

 しかし、このような時代の「流れ」の中に「点と点」が結びつき、多くの世代の人が同じ時代(いま)を生きていることは、大変幸せなことであり未来につながる「絆」であると思います。

 これまでの30年で先輩方が経験したことを拝聴する機会を持つことは、これからの30年を生きる若者にとっては大変貴重なものです。また我々の若い世代が40代、50代になった時、今とは逆に20代の人と交流を持てることに対しても明るい希望を持つことができます。

 変わりゆく時代の流れとともに、これまで長年培われてきた先輩方の知識や経験、そしてこれからの時代を担っていくであろう若者の研ぎ澄まされた感受性、それらがうまく混ざり合ったら良い時代になるのではないでしょうか。少なくとも、身近な存在にある人達がこうした歩み寄りを行えば、和敬塾が大学生活だけのものでなく、社会人として立派な漢として胸を張って生きていく為の絆になるのではないでしょうか。

 和敬塾が創立され55年以上経ちました。
これからの50年も今と同じく和敬塾という組織が存続し、時代とともに進化していく姿を目にすることができれば幸いです。

以上

 

H17北 盤若が行くシリーズ ドイツ編「フランクフルト到着」

H17盤若が行くシリーズ ドイツ編「フランクフルト到着」

 

皆さん、こんにちは。H17北の盤若です。

さて、「盤若が行く ドイツ編」の第2弾です。

 

約12時間のフライトを存分に楽しんだ後に、ついにフランクフルトに到着しました。

飲み続けたので酔いも覚め切らない中に降り立ったフランクフルト国際空港。

東京(成田)発が8月20日 12:15だったのですが、フランクフルト着は現地時間で8月20日 17:20になります。

ドイツと日本の時差は-7時間なので、到着時の東京時間では8月21日0:20になります。東京は深夜ですね。

 

今回は、JALの航空券+ホテル+送迎がセットになっているダイナミックパッケージというプランを使いましたので、往路の空港からホテルまでの送迎がついていました。

荷物を受け取って早速プラカードを持ったお兄さんを発見。

 

車での送迎ですが、車はベンツSクラス!わぁお。

やっぱビジネスクラスのお迎えはベンツだよなぁ、なんて考えていると、あれれ、タクシーも全部ベンツ。ベンツのEクラス。

ってか、ベンツだらけじゃないか!?

 

うーん、確かに東京のタクシーでトヨタや日産なのは当然の光景だけど、タクシーにクラウン使うのなんて個人タクシーだけだしなぁ。

ドイツで買うとベンツのEクラスも安いんだろうか、、、。

 

タクシー

タクシー

着いたのが夕方の17時だったので、ホテルまでの道のりでは見事にラッシュに遭遇。

 

実は、フランクフルト空港からフランクフルト中央駅までは、鉄道で12分なんですよね。数日後に知ったのですが。

ラッシュ時の車では40分くらいかかってしまいました。あらら。

 

 

そして到着したホテル。

今回の宿泊先は、 ウエスティン グランド フランクフルトです。

 

ウェスティンホテル

ウェスティンホテル

ウェスティンホテル

ウェスティンホテル

ウェスティンホテル

ウェスティンホテル

 

 

 

早速、軽くフランクフルト中央駅まで散策してみることに。

 

 

 

フランクフルト街並

フランクフルト街並

 

 

 

ゲーテ像の前でぱちり。

 

 

ゲーテ像

ゲーテ像

 

 

ECBのモニュメントの前でもパチリ。

下側の星がいくつか割られてるのが欧州っぽいかも。

日銀が割られてるなんて、ないだろうしなぁ。

 

ECB

ECB

 

 

コメルツ銀行の本店です。

 

 

コメルツ銀行

コメルツ銀行

旅の鉄板、地球の歩き方を読みながらの散策です。

 

 

地球の歩き方

地球の歩き方

 

 

ちょっと鉄道にも乗って見ました。

Sバーンってやつです。

 

Sバーン構内

Sバーン構内

 

 

最初は、全く切符の買い方が分からなかった。。。

ドイツって改札ってやつがないんですね。駅員さんもいないから、合ってるか分からんのです。

これが券売機です。タッチパネル式。

一応英語表記もあるので、適当にパチパチ押して買ってみました。

 

 

 

Sバーン券売機

Sバーン券売機

 

切符買わなくても電車に乗れてしまうんだけど、もし切符もってないのを駅員に見つかると高額の罰金になるよ、というシステム。

しかし路線図は東京メトロ顔負けの複雑さ。

 

Sバーン路線図

Sバーン路線図

 

 

これまた数日後に分かったんですが、1.6ユーロで良かった近距離切符を、
当時は分からないので駅名入力して2.6ユーロの切符を買って、まぁこれでいいだろ、と考えて乗っていました。

まぁ、無賃乗車ではなかったんだけど。

 

Sバーン内

Sバーン内

 

ここ大事です!

いや、旅行期間中に結構な距離&回数を鉄道に乗ることになったんですが、であれば、これを買っておけば良かった!

っていうのが、「ジャーマンレイルパス」

http://www.railohshu.jp/railpass/GermanRailPass.html

 

是非、これから3日間以上はドイツを広域に旅するっていう人はご検討下さい。絶対お得です。

これを買っていれば、4万円くらいは節約できたなぁ、と今更ながら後悔しております(泣

 

 

というわけで、ついに着きましたドイツ。

 

次回の盤若が行くドイツ編は、ニュルンベルグの旅をお届けします!

H17北 盤若が行くシリーズ ドイツ編「成田からの旅立ち」

H17盤若が行くシリーズ ドイツ編「成田からの旅立ち」

 

皆さん、こんにちは。H17北の盤若です。

夏も終わりに近づきましたが、塾友の皆様はいかがお過ごしでしょうか。

 

 

さて、今回の「盤若が行くシリーズ」はなんとヨーロッパはドイツ!!

あの、ブンデスリーガのあるドイツです!

私、実は初めてのヨーロッパ旅行です。もうワクワクドキドキです。

一人でのドイツは心細いですが、H16北の古閑さんとの二人旅なので安心感は抜群^^

それでは、4泊6日のドイツ旅行記をお届け致します。

 

H17北 盤若

H17北 盤若

 

今回はJALさんにお世話になりました。

8月20日成田発12:15、フランクフルト着は同日の現地時間17:20です。

フライト時間は12時間程度。

 

初ヨーロッパに加えて、なんと今回は初めてビジネスクラス!!!

ビジネスクラスカウンターでのチェックインから盛り上がってきます。

 

成田空港JALチェックイン

 

チェックイン時に、「JALビジネスクラスなので、JALサクララウンジをご利用ください」

と言われ、サ、サクララウンジ?と思いつつ荷物検査ゲートをくぐるって行ってみると、、、

 

 

なんとビール飲み放題!!!

しかもプレミアムモルツ!!!!

おいおい、いつもエコノミーの私に隠れて、ビジネスクラスの皆さんはこんな空間でまったり出発を待っていたのか!

 

JALサクララウンジ

 

これから機内食もあるのは知りつつも、やはり飲まずにはいられません。

和敬的に、目の前に酒があるのに戴かないなんて、松尾様に申し訳ないと言うか(笑

 

 

登場前の掲示を見て、「あぁ、本当にこれからドイツに行くんだ、、、。しかもビジネスクラスで、、、。

既に感慨もひとしおです。

 

 

JALフランクフルト行き搭乗

JALフランクフルト行き搭乗

ついに座席に到着。

むむっ、な、なんだこれは。

座席が広いし、オートで角度が変わるじゃないか。

座るだけで、出来るビジネスマンになったかのような、、、。

 

つい目つきも変わってしまいます。

 

JALビジネスクラス

JALビジネスクラス

スムーズに離陸すると早速の機内食。

 

和食と洋食が選べたのですが、

酒メニューに記載あった大吟醸に惹かれて、迷わず和食をオーダー。

サーブしてくれるCAさんの優しさが、これまたグッときます。

ついつい日本酒も進んでしまうというものです。

 

JALビジネスクラス機内食

JALビジネスクラス機内食

 

まずは、山形県は酒田酒造が醸した「上喜元 純米大吟醸」と共に。

くぅ~、五臓六腑にしみわたらぁ。

 

 

JALビジネスクラス機内食

JALビジネスクラス機内食

お次は、アンリ・エリアール リースリング2011の白ワインを堪能しつつ、

お食事が運ばれてくるタイミングで、もう一度、日本酒を。

 

二本目は、高知県は仙頭酒造の「土佐しらぎく 純米大吟醸」を。

 

 

う、うま、、、、。

 

 

 

ここらへんで、隣の古閑さんがオーダーした洋食もご披露しておきます。

 

東京麻布十番「山田チカラ」監修による洋食。

まずはサラダ。てんこ盛りです。

 

JALビジネスクラス機内食

JALビジネスクラス機内食

メインは、パン粉をまぶして焼いたノドグロ、だそうです。これもうまそうだ。

 

JALビジネスクラス機内食

JALビジネスクラス機内食

 

 

さぁさぁ、こんなもんではお腹いっぱいにならないのが盤若です。

 

続いて、東京香味カレーライス“オニオンチキン”をオーダー。

好きな時に、好きなだけ頼めて、お酒も飲み放題だなんて、、、、。

 

 

JALビジネスクラス機内食カレーライス

JALビジネスクラス機内食カレーライス

 

隣の古閑さんもお腹がすいてるようで、

追加で、和食と洋食を注文してました。

 

JALビジネスクラス機内食BEDD

JALビジネスクラス機内食BEDD

一通り食べてるのに、追加で和食と洋食って。。。

ちなみにこの和食と洋食、パリで活躍する狐野扶実子さんの監修によるものだそうです。

 

JALビジネスクラス機内食BEDD

JALビジネスクラス機内食BEDD

え、エビ、うまそう、、、。

ここで、盤若の反省

盤若は帰りの便で食べようと思ってたのですが、この和食洋食は往路便だけだったのです。

無念っ。

まぁ、山菜うどんも食べましたけどね。

 

JALビジネスクラス機内食BEDD

JALビジネスクラス機内食BEDD

 

 

と、こんな感じで、食べ続け、飲み続け、映画とか見てたら、あっという間にフランクフルトへ到着。

 

フランクフルト国際空港

フランクフルト国際空港

なんだかJALの宣伝のようなドイツ編初回でしたが、ビジネスクラスに感動してしまい。。。

さぁ、いよいよドイツ旅行の始まりです!!

 

 

塾友の皆様、次回の盤若が行く ドイツ編をお楽しみに!!!

 

 

盤若が行く「愛媛の酒を楽しむ会」@椿山荘

皆さん、こんにちは。H17北卒の盤若です。
今回は、2013年7月25日に東京目白台は椿山荘で行われました、
「愛媛の酒を楽しむ会」に行ってまいりましたので、ご紹介させて戴きます。

 

ちなみに、今回出展されている愛媛の酒蔵の一つである、
中城本家酒造の中城文吾さんは、和敬塾OBであり、H14年北寮卒の蔵人であります。

 

私は、去年に引き続き2年連続での参加です。
今年は、H16卒の古閑さん、H18年卒の黒田さんと一緒に参加してきました。

下の写真で、お客様にお酌をされているのが、中城文吾さんです。

IMG_4893

 

早速、今回参加された19の愛媛の酒蔵を、順番に回ってみようということに。

それぞれの酒蔵さんが丹精込めて作られた日本酒を好きなだけ試飲できます。

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やっぱり、まず始めは、中城本家酒造のコーナーへ。

中城本家酒造のコーナー

中城本家酒造のコーナー

城川郷ブランドの美味しいお酒を飲み比べできました。

私は、山田錦と松山三井の酒造米をブレンドさせた「尾根越えて」が好きですねぇ。

 

中城文吾さんと私、黒田さん

中城文吾さんと私、黒田さん

美味しい日本酒を試飲させて戴いた後、なんと抽選大会の景品で日本酒が当選!

 

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当たることはないだろうと、時間目いっぱいの試飲を続けていた私も日本酒を当てました!

 

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来年も、この時期に開催するかもしれないとのことです。

皆さまもご機会があれば、是非ご参加下さい。

また、中城文吾さんの造られたお酒をお求めの際は、下記URLの連絡先まで宜しくお願いします。

http://www.ehime-syuzou.com/kuramoto/39.php

 

お楽しみ頂けましたでしょうか。それでは、またお会いしましょう。

 

H17北、盤若

 

 

 

 

昭和57年南寮卒青井賢司さんの「意外につづいていること」

「意外につづいていること」

 

学生時代には、同じことを繰り返して続けることが苦手だと自分では思っていた。

卒業したらサラリーマン生活より世界を放浪するヒッピーの生活に憧れていたが、

今ではサラリーマン生活を同じ会社で30年も続けている。

周りも自分も変わるので同じ仕事を続けているわけではないが、学生時代には

考えられない変貌ぶりだ。もう一つ意外に続けていることがある。

 

茶道を20年、長く続けるつもりもなかったのに今では生活の一部となってしまった。

始めることになったきっかけは、仕事の関係で外人と会話する機会が増え、日本的な

文化や習慣を教えてほしいとよく質問されて、回答に窮したことだ。

あらためて日本的とは何かと自問自答すると、何もわからないのである。

たまたま知人に茶道の先生をしている親戚を紹介するよ、と言われて見学したら

自分でもやってみたくなり、毎週土曜日の稽古に通うようになった。

最初は所作を覚えることで一杯一杯だったが、道具や季節によってお点前にも

いろいろ種類があることが徐々にわかり、稽古以外に関連する美術の観賞や

お茶会に参加したりすることで「お茶一杯で人をもてなす総合芸術」である

ことを理解するまでに至った。

 

掛け軸、花、香合、釜、水差し、お茶碗、茶杓、棗、風炉、菓子器等の道具から

茶室や庭まで、その季節とお客様に合わせた取り合わせを考え準備し、お客様と

亭主にとって特別な時間と空間が作られていく。そこには戦国時代から脈々と伝承

されている精神や美意識が現代にも生きていると感じることができる。

昨年、安田財閥が所有していた茶室(松滴庵)を使って茶会をさせてもらった。

二畳中板というせまい空間に奥行きを感じさせる台形の床や開放感を感じさせる

大きな障子窓など、人を驚かせたいというユーモアとアイデアに感動した。

他にも東京都内に好きな茶室がある、五嶋美術館にある庭の風景が楽しめる月見亭、

山中にあるかのような畠山美術館や庭園美術館の茶室。

いつか、和敬本館の茶室も使ってみたい。

 

茶室(青井さん)

 

茶会では亭主がどんな趣向で茶席を用意したのか、道具にはどんな伝来があるのかと

いろいろ想像してみるのも楽しみ方の一つです。お試しください。

 

50歳過ぎてから書道と絵画も始めました。これも長く続くかもしれない・・・

リタイアしたら放浪の旅にも出てみよう。これは長く続かないかもしれない・・・

 

青井さん自身

平成21年卒 東寮 田中智浩/「和敬のパワープレイと北京での気づき」

「和敬のパワープレイと北京での気づき」 

 

現在新卒入社3年目を迎え、北京で働くことになってちょうど1年目を迎えることになった。
学校にもあまり行かずに和敬の民として、東寮2班の廊下に居座り続けた身としては、
一緒に生活をしていた方々の考え方や目標の違う個の集団生活が染みついているわけで、
その観点から和敬生活において「パワー」とはどういうものだったか振り返り、
北京での気づきについて書いてみることにする。

 

 

  •  和敬におけるパワー

和敬には学年序列の絶対的なパワー関係と、個人に紐づく相対的なパワー関係の2種類が存在した。
例えるならば、前者はジュースを買いに行くときに下の学年が買いに行くという暗黙のルールであり、
後者は「○○さんに言われたから合コンを開かなければ」という個人に課せられる責務感のようなものであった。

 

前者は学年の差分に比例して強さを増し、
後者はその命令の裏にあった「見返りとしての楽しさ」の期待値にその強さが依存していた。
今考えてみると、学年序列の絶対的パワー行使を受ける中で、
「見返りとしての楽しさ」という期待値が徐々に形成されたのは間違いなく、
後者の相対的パワーは前者の絶対的パワーに依存していたと考えられる。

 

後者のパワーをうまく使う人たちは、多くの人に効率よく、
個々の期待値を高めるという点において器用さを持ち合わせていた。
言うまでもなく、彼らは多くの人たちを動かし、
そして期待値以上の「楽しさ」を提供することで寮を盛り上げていた。

 

 

 

  •  会社におけるパワー

社会人になって感じるのは、前述の2つのパワーで人が動くというロジックは、
ほぼ変わらないのではないかということである。
学年は役職に置換され、「見返りとしての楽しさ」は「評価ややりがいのある仕事」に置換されただけに感じる。
人を動かす立場で考えるならば、長い月日で徐々に周りの期待値を上げれば、
おのずとパワーは集まってきて大きな仕事が出来るようになるのだろうという予感はある。
ベンチャーに勤める自分が言うのも変だが、
いわゆる日系の大手企業というのは長期で人を見る事が求められるので、この傾向が強いのではないだろうか。

 

 

 

  • 北京での気づき

入社2年目の終りに北京に行きたいと言っていたら、本当に送り出してもらい、
今は現地で管理者に近しい仕事もさせてもらっている。
こちらで1年過ごして分かったことは基本的に前述のパワーが形成されて人が動く仕組みは同じであるものの、
動く側の「見返りの期待値」の違いに驚く時が多々あるということだ。

 

例えば、営業職にとっての見返りは「売上に対する会社からの評価」以外に「社外のコネクション形成」が大きい気がする。
なぜならば、営業は人とのコネクションが資本であり、
中国ではそのコネクションの多さと太さで給与が決まる傾向にあるから。
営業職に限らず一般的に2年程度で会社を転々とする人が多く、会社が提供するものに対して、
うまく短期間でどううまくリバレッジを利かせるかが重要なのは確かにわかる気がする。

 

 

私がこのことに確信を持ったのは退職者に伴う名刺の引き継ぎがほとんど意味をなさなかった事を経験したからである。
きっと前述の相対的パワーを効率よく使う人ならばもっと早く気付いただろう。
なぜならば彼らは深夜3時に人のドアを蹴り破っても相手をまったく怒らせないほど、相手の期待値に対して敏感だったから。

 

反日デモに代表されるように多くの人が「動く」機会は中国では多く、そのためにパワーが行使されるわけで、
その裏にある暗黙の期待値が一部でも分かった時に私としては「楽しさ」を感じたりする今日この頃です。

平成21年卒 和敬塾東寮 田中智浩

昭和57年南寮卒 小崎 雅也さんのMy Favoritething

スポーツ吹矢をご存知でしょうか? 時々マスコミにも取り上げられることがあるので、ご覧になったことがあるかもしれません。
スポーツ吹矢は、来年開催されるスポーツ祭東京2013(第68回国民体育大会・第13回全国障害者スポーツ大会)に、
デモンストレーションスポーツとして参加する競技です。
先ごろ2015年の和歌山国体にも参加が決まりました。

 

吹矢というと忍者のイメージがありますが、しくみは全く同じ。
人間の息だけで矢を飛ばして的に当てます。
ただ、先が尖っている訳でも、毒が塗ってある訳でもなく、スポーツとして楽しめ、健康づくりに役立つよう改良されたのが、スポーツ吹矢です。

 

 

よく腹式呼吸は健康に良いと言われていますが、なかなか呼吸法だけを継続するのは難しい。
今はやりのロングブレスダイエットも、呼吸法をいかに習慣化して続けるかが課題のようです。
スポーツ吹矢の呼吸法は、腹式呼吸に矢を吹く時の強い息を加えたものです。
普段使われていない肺胞の隅まで酸素を行き渡らせ、これを一度に口から吹き出す。
原理はロングブレスダイエットとほぼ同じ。
これに的に矢を当てるというゲーム性を加えたものがスポーツ吹矢と考えていただければわかりやすいかもしれません。

 

肺を最大限に膨らませると、他にも良いことがあります。
肺の下にくっついているのが、メタボの強敵「内臓脂肪」。
これは腹筋をしてもなかなか取れないのですが、スポーツ吹矢式呼吸法によって肺が動くため、くっついている内臓脂肪も強制的に燃焼します。
私はベルトの穴が二つほど減りました。喘息のリハビリや自律神経失調症改善に採用されている病院もあるようです。

 

スポーツ吹矢には段級位が制度化されています。
おおまかに言うと、直径12cmの的に8m離れた所から30本続けて当たれば初段。
これだけ聞くと難しいように感じますが、早い人では始めて3ヶ月位で初段が取れます。
AKB48のメンバーで初段を取っている人もいますから、そう難しい競技ではありません。試しに一度やってみませんか?

 

全国各地に支部があり無料で体験できますので、詳しくは日本スポーツ吹矢協会ホームページ( http://www.fukiya.net/ )をご覧ください。

リレー形式ということなので、次はホームカミング大会実行副委員長の青井賢司さんにお願いします。

昭和57年 南寮卒  小崎 雅也

My Favorite thing(私と将棋)

将棋には小さいころから私に常に挫折感を味あわされてきました。

小学校のとき、近所では大人にも負けない将棋天狗でしたが、親戚の下級生に鼻をへし折られました。大学入学後、勇んではいった将棋部では何といきなり12連敗して1つも勝てず退部。恥ずかしくて2度と指すまいと誓いました。しかし社会人でも懲りずに実業団大会に参加し連敗。さすがにその後20年以上、将棋とは離れた生活を送ってきました。
あるとき、偶然、書店で『ウェブ進化論』著者の梅田望夫さんの『シリコンバレーから将棋を観る』を手にとり「指さない将棋ファン」の道を知り、以後、将棋を観る楽しさを味わっています。TV将棋や将棋本もここから何かを得て強くならねば、という意識でなく、普通に楽しめるようになりました。不思議なことに、ずっと挫折感を味あわされてきた奴が今は最高の友だちになっています。

北尞57年卒 村松 達雄

「ひとり和敬合宿」~青森編~

こんにちは、平成18年北寮卒の坂本庸造と申します。
皆様のお目汚しになると知りながら、拙文を綴る非礼をまずはお詫び申し上げます。

若輩の私が今、こうした公の場に書けるものがあるとすれば、旅行記くらいでしょうか。事の発端は大学時代の夏休み、和敬の皆々と旅をしながら帰省した和敬合宿まで遡上します。
寮生の実家に泊まり、或いは野宿し、西へ西へとコマを進めてはひとり、またひとりと帰ってゆく。家路が旅路となる風情に「ああ、こんな旅もあるんだなあ。」と。私の長い長い旅の始まりでした。

悲しいかな、社会人ともなると時間がなく、野宿という無法もなかなか天に通じない現実を目の当たりにし、諦めに諦めを重ね、最後に残った旅心。そんな傷心の慰みに、
以下に綴るこの駄文を「ひとり和敬合宿」と題することにしたのです。ひとり和敬合宿。そう名乗れば、拙文にも齢を重ねた哀愁と、この場に恥じない和敬塾との有意な関連を見出せるでしょうか。
そんな言い訳がましい大義名分もほどほどに、お読み戴く方々の今後の旅の一助となれば望外の喜びです。

前置きが長くなってしまいましたが、この8月は青森へ行って参りました。目的はねぶたです。数多の市町村で執り行われるそれは、各々が個性をもっています。
今回私が訪ねたのは内3つ。


弘前ねぷた(弘前市)


大湊ねぶた(むつ市)


青森ねぶた(青森市)

規模も参加層もそれぞれ異なる3行事を観終え、最も記憶に残った舞台を挙げるとすれば、青森ねぶたでしょうか。熱気、活気は体育祭さながらに、
伝統を現代風に巧くアレンジしている感があり、若者も積極的に参加していたのが印象深いです。ジャガリコやリポビタンD(それぞれスポンサーの商品)の山車灯籠を引いて、楽しそうに駆け回る学生の姿が今も脳裏に焼き付いています。

趣向を類する行事を見比べると、自ずと見えてくるものがあります。それを詳らかにするにあたり、しかし、まさに言葉足らずではありますが、字数制限のためここで筆を置かせて戴く次第です。

平成18年北寮卒 坂本庸造

200ドルで始まった50年の冒険はまだ終わっていない。

(S35南 佐藤繁美、米国在住)

1960年(昭和35年)の夏、和敬塾南寮の3階で10人ばかりの塾友に囲まれて私が米国に留学する送別会があった。塾友が工面して集めたお金そのほかから集めたものが米ドル200ドル相当もあった、その当時の200ドルは1ドル360円の時代だったので大変なことだった。塾友の思いやりは忘れることができない。旅立ちの日数人の塾友が横浜の氷川丸の中まで同伴してくれたことも忘れることができない。

私にとっては、米国留学は新しい将来への第一歩のようだったが、内心心細かった。その氷川丸にはフルブライト交換学生や米国に帰国する人たちなど色んな人がいた。私たち、学生は船の底の三等客室で一部屋に8人が同居して二週間の航海をすることになった。船が北太平洋航路を通るので、8月末とはいえ寒い日が1週間も続いた。やっとシアトル港に着いて、入国の手続きを終え、昔お世話になった宣教師と立教大学で知り合いになった米兵の所に数日泊まった。渡米二日目にシアトルのレニア山に登山したが、23歳の私にはこれが無謀な冒険の初めだとは実感しなかった。

一番心細くなったのは、デトロイトでミシガン州のウエイン州立大学の大学院で物理化学を勉強した時だ、宿題は毎日50ページくらい読んで、毎週あるミニテストに準備することだったが、英語の読み書きの速度は同級生の米国人とは比較にもならなかった。教授のドイツ語訛りの英語は理解するなんてものではなかった。それで、私の英語を話す能力たるや、皆無に近いものだった。それで、読み書き、会話が出来なかったことは、私の成績に大きく影響した。

専門の生化学ですら、平均以下の成績だったし、有機化学も第一学期はお話もできないものだった。研究室のチェン教授には、あと6ヶ月で成績が改良しなければ、退学するより仕方がないと言われた。その時のショックはすごかった。目の前が暗くなった。ポケットの200ドルもあとあまり残っていないので、帰るわけにもいかないし。どうしようか、と思った。

小学校時代の修身の教科書にあった話しを思い出した。 豊田佐吉が大正時代に米国に豊田自動織機を設置に来たとき、短刀を腰につけていたので米国人が日本人は武器をいつも持っているのかと質問したとか。実は、もし豊田自動織機が失敗したら自殺するつもりだったとか聞いている。(トヨタ車のリコールとはかなり対比的な話だ)豊田佐吉の話が脳裏について、眠れない夜が続いた。本当に留学が成功しなければ、自殺するよりしかたないなと思っていた。

ノイローゼ気味になった。そんな時、立教大学の産業心理学の鶴見教授が交換教授でウエインに来ておられた。鶴見教授は私と会うや否や、ノイローゼには飲みに行くのが第一だとアドバイスしてくださった。それで私は大学近くのバーによく行くようになった。その頃のデトロイトのバーにはバレスクとかボードビリアンをいって一人でジョークを演じるのが多かった。ストリップショウもあった。ジョークの「落ち」らしきところで皆が大笑いしていたが、何故みんなが笑っているのかを理解したかった。

大学時代に落語が好きで新宿の寄席によく通ったものだ。何ヶ月か、バー通いをしているうちにすこしづつジョークがわかるようになった。渡米して6ヶ月後くらいのある朝、起きたときにラジオ放送の内容が全部わかることに気がついた。変だなと思ったが、外で隣の人と話したら、なんと話の内容が完全に理解できるではないか。自分の話していることも通じていた。英語が始めて自分の頭についたことの嬉しさは今でも忘れられない。バーを駆け回って、街頭英語の、悪い表現を沢山身につけたが、大学での成績も上がりだした。

まともに、米国人と競争していたのでは絶対に追いつけないと思って、方法を変えたのだ。授業で習った方程式や化学構造をかたっぱしから絵として記憶して、生化学の代謝のマップも全部記憶した。(幸いにも、その頃の代謝マップはドアの両側に入る大きさだった。いまでも、殆どの代謝経路はいまでも私の語彙のなかに入っていて、大学で講義するときも、使っている。)図式で思考を整理する習慣をつけたことから、自分が試験の解答をするにも、方程式、化学構造を一杯取り入れたので米国人の学生と同等に競争することが可能になった。

読むほうは、一行ずつよむのではなくて、ページを一分くらい漠然と眺めて内容を把握する、それをカードに図式でまとめて記入すると50ページの複雑な内容が50枚の小さいカードに収まる。そのカードを記憶すれば、試験も満点まちがいなしだった。この勉強法で成績があがり、卒業するころには優秀な成績をとれたし、街頭英語の習得で会話も急速に上達した。このような、勉強法は私にしか通用しないのかもしれないが、若い人たちにぜひお勧めする。

このようにして習得した英語が実用になるかどうかは、米国人と論争(喧嘩)してみるとその威力が発揮できる。日本から来ている学生、ポストドクやビジネスマンたちはとてもはにかみやで、自分の言っていることが通じるかを心配しすぎるから、何も話しが進まない。
私の話していることを理解できないほうが悪いのだと思って堂々と話すべきです。(インド人、中国人、韓国人の学生は皆、それぞれのアクセントの強い英語で早口で挑戦するのが、気持ちがいい。江戸っ子のベランメー英語でやるのもよし。上品な英語は年をとってから、必要に応じて身に着けるといいでしょう。)

日本人の英語能力の増加をしなくてはならないことは日経新聞、2010年 2月22日号に新潟県立大学の猪口孝学長が、日本人が実用になる英語を身に付けるように英語教育の改革を5年以内に始めなければ日本は国際社会についていけなくなると警告していた。私は猪口学長の意見に賛成します。皆さんにこの記事を読まれることを薦めます。
私の英会話が急速に上達したことの理由にはもうひとつある。大学院で論文研究などしている、周りの学生は皆既婚者かデートの範囲外のものばかりだった。そんな連中の中に、隣のラボに女性がいた。彼女と同じクラスをよくとるようになった。試験の勉強などのグループにもよく誘い合って出席していた。そのうちデートもするようになった。

デート用の英語なんて映画でしか聞かなかったが、とても「気障」で実用にはならなかった。あれはハリウッドだけに通用するものかもしれない。だから、自分なりに意思を通じなくてはならなかったので苦労したが、それで英会話が急激に上達した。結局、大学院は卒論研究などで波瀾の多い4年であったが、1964年に彼女と結婚した。結婚する前に彼女が先に博士号をとって卒業したので、男として、遅れをとるわけには行かなかった。そんな競争が大きな収益をもたらした。この方法は若い学生さんにとくにお勧めする。ちなみに、結婚してもう47年になる。

つぎに、あまり変哲のない私の生活について書いてみる。大学院生活も無事に終えて、博士号をとり、学生ビザの期限がきれた。家内を連れて日本に帰り2年間、名古屋市の愛知がんセンター研究所でポストドクをした。家内にとっては日本を理解するいい機会となった。その後、ボストンのタフツ大学で生化学を教えながら、ペプチッドの合成を学んだ。4年後の1972年はベトナム戦争の余波を受けて、ニクソンショックという経済恐慌、職探しは大変だった。

60通以上の手紙を色んな大学や会社に出したが、職は見つからなかった。現在の米国と良く似た状態だった。そんな中のある日、ミシガン州のカラマズー市にあるアップジョンという大手の製薬会社の研究所から面接に招かれ、4月にアップジョン社に就職し、免疫学の薬学の研究生活に入った。もともと、ミシガン州で教育を受けたので、カラマズー市のようなこじんまりした街は子供を育てるにも、その街の大学で教えるにも最適な環境であった。

色んな分野の研究をしながら、その会社に26年勤め、会社がファイザー社に買収される直前、1998年に引退した。その後、以前から関係のあった、ランシング市のバイオテク会社 ネオジェン社に研究開発の副社長として就任した。会社につとめながら、当市のミシガン州立大学の国立食品安全研究所と工学部、化学工学の非常勤教授として教え始めた。その会社で副社長として12年働いた。2010年12月31日に同社を引退したのだが、これからの余生をどうして過ごすかを考えているところだ。大学のほうはまだ非常勤教授としてバイオセンサーの設計などの講義や指導を続けている。

引退すると自分の生活が極端に変わる。今まで、ファースト・ネームで付き合っていたビジネス関係の友人からは何の音沙汰もない。時々電話が掛かってくるが、内容は私が実質的に技術関連無料相談所になっているようなものだ。引退する前日とその翌日で私の社会での価値がゼロになるものだろうか。米国の社会の価値観がいかに地位と結びついているかがわかる。引退した翌日から、私がすることは皆ボランティアの仕事で無償ですることを期待されているようだ。

米国にも、人口の老年化が目立ってきて、第二次世界大戦後のベービーブームの人たちが年金をもらう現場から引退し年齢になってきた。それに、現在の経済恐慌が重なって、無償か最低賃金で働く老人が増えている。米国の社会には今までの経験を生かす概念がないのかもしれないが、過去の技術的な経験は博物館に保管するくらいだ。 ソフトで成功しているグーグル社の社員の平均年齢は男性が29.7歳、女性が28.4歳で、会長ですら48歳である。そんな会社には老人の知恵の必要性はもうなくなっている。

それより、米国の経済を支配する若い人たちの多くがMBA(経営学修士)の学位を持っているが、この人たちのテクノロジーに対する理解度は高いとは言えない。テクノロジーを利用して利益に変換することには卓越している。私にはそれが不思議でしかたがない。科学技術を身につけていない人たちがマネジメントになって詳細を決めることは、水泳できない人が水泳を教えるのと同じで、私のマネジメントの思想に反している。

それで、引退した予後の生活では、テクノロジー管理でMBAを獲得することを目標にして、経営学の実際を経験できる計画をつくった。40数年を企業の研究所で業務の実施でテクノロジーをマネジしてきたのだが、それが、経営とどう結びついているかを勉強し、MBA中心の米国経済の中身を少しでも理解できればいい、と思う。74歳で大学院に籍をおいて勉強することになるので、隠居生活とははるかに遠い。卒業するのは77歳と言う事になるが、その時点で次は何をするか考えよう。

渡米したときも、無謀だった。所詮水の中に飛び込まなくては泳ぐことはできないのだから、そのつもりで米国に来たのだが、私は馬鹿だなと思った。その無謀さが今でも治らないので困ったものだ。昔から、ドイツ人は走る前に分析して結果を計算して走り出し、日本人は皆が走った後でその結果を検討して走る計画をし、米国人は走り出してからどこへ行こうかと考えるといわれるが、私の場合はどうなのだろう。まだ、この無謀な冒険は続きそうだ。

マレーシアとの出会い

私は1967年、某自動車企業の海外取引担当スタッフとして業務出張したときから、マレーシアとかかわるようになった。

海外の植民地で生まれ、終戦直後内地へ帰ってきたいわゆる引揚者である私は、大人になったら海外へ行きたいと子供のころから考えていた。海外に行けるなら業種や職種にはこだわらないという姿勢で就職活動した結果、1961年、海外部門がある同企業に入社することが出来た。

入社7年目にして初めて、タイ・マレーシア・シンガポール・カンボジア・香港を巡回する海外出張命令を受けた。その後も何回かマレーシアに出張したが、マレーシアは嫌いな国のひとつだった。嫌いな理由は、入国時にライターやボールペンなどを税官吏に渡さないと手荷物通関を円滑にパスできなかったことだ。そのうちに、ルック・イースト政策を掲げたマハティール元首相が国を治めるようになってから、マレーシアはすこしづつ良い方向に変化しているのを実感できるようになった。

日本経済のバブルがはじけかけたころ、前記自動車企業の取引先企業がマレーシアに自動車関連部品工場を建設することになったが、そのプロジェクトを遂行するスタッフが育成されていなかった。1990年、私はその取引先に休職派遣され、現地企業との合弁会社を設立する業務に携わることとなった。合弁契約の原案を作成し、契約に関する折衝のため、何度かマレーシアを訪れた。ルック・イースト政策の効果で、いい方向へ大きく変化したマレーシアは私の好きな国のひとつになっていた。

合弁企業の副社長としてマレーシアに常駐することになり、合弁パートナーの事務所の一角に机を与えられたが、赴任予定の1991年に湾岸戦争が始まり、多くの日本企業が海外渡航を自粛した。私の籍がある自動車企業においても、なるべく海外渡航は控えるようにというお達しが社内各部門に発せられた。合弁パートナーからは「マレーシアは安全だから、一日も早く来てほしい」と毎日のように催促されながら、一方で休職派遣先のボスからは「このような時期なので、私から行ってくれと言えないが、出発するかしないかの判断はあなたに任せる」と言われ、「出発すべきか、待つべきか」結論を出せないまま1ヶ月ほど苦悩の日々をすごした。

タクシー・ドライバー、青年経営者、ドリアン

状況が少し落ち着いた1991年2月にクアラルンプール入りし、住居が決まるまでの間、ホテル住まいとなった。翌日、出勤するためにホテルで客待ちしていたタクシーに乗った。事務所までの間に、ドライバーと意気投合し「毎朝7時にホテルへ迎えに来る」ということになった。私がコンドミニアムへ入居してからも、自分の車を入手するまで、彼は毎朝7時に私を迎えに来て事務所へ送ってくれた。
彼には現在でも、必要なときはハンドルを握ってもらっている。たとえば、マレーシアを初めて訪れる知人たちとマラッカへ観光したり、クアラ・セランゴールへ蛍見物に行ったりするときに、一声掛けると、他の仕事との時間調整をしたうえで、私の要望に応えてくれるといった具合だ。もちろん、料金はぼったぐりなし。

あるとき、年齢は若いが父親から経営を任されている、マレーシアの某自動車企業のボスからゴルフに誘われた。スタート時間が18:30だという。私にとっては初めてのナイト・ゴルフだった。パートナーやボスの友人も含め、3組のメンバーが集まった。
21:30頃、ゴルフが終わってシャワーを浴びていると、ボスが「この後カラオケに行こう」と誘ってきた。「もうカラオケ店は閉店時間ではないのか」と暗に断ったところ、「マレーシアのカラオケは22:00から始まるのだ。それに、今日は君のパートナー夫人の誕生日で、皆でバースデーのお祝いをすることになっている」と言われたので、彼らに同行した。店では客に一人づつ女性がついたが、そのような場所で奥さんの誕生パーティーをするというアイデアに驚いた。02:00過ぎまで飲んで、歌って、食べた。それでも、翌日は遅刻しないで出勤している彼らのバイタリティーにもショックを受けた。

この若いボスに「今夜、俺のうちでドリアン・パーティーをするので、付き合え」と誘われたことがある。毎年、ボスはマレーシア各地のドリアンを自宅に取り寄せ、品評会をすると言うのだ。当時私はドリアンを食べることが出来なかった。その原因となったのは、1967年の海外出張だ。最初の訪問地バンコックで某商社の駐在員がドリアンをホテルに届けてくれた。果物の王様という呼び名からとても美味しいものだと想像していたのだが、ホテルのコーヒー・ショップで開いてもらったとたんに感じた異様な匂いのため、まったく口に入れることが出来なかった。それ以来20年間、ドリアンを出されても、食べないことにしていた。

そのようなわけで、ドリアン・パーティーに誘われたときは答えに困ったのだが、断るのは会社の業績に悪影響を与えると思い、ボスの自宅へ同行した。ボスに「このドリアンを食ってみろ」と勧められて、いまさら「ドリアンは食べられません」とも言えず、私はドリアンをつまみ目をつぶって口に入れた。予想に反して、その時のドリアンはチョコレートの味だった。ドリアンはこんなに美味しかったのかと、20年間ドリアンを避けてきたことを後悔した。それ以来、私はドリアンが大好きになった。ドリアンが傍にあるとき感じるのはチョコレートの香りだし、炊き上げたご飯にドリアンを混ぜて食べた(学生時代、ご飯にバターを入れ醤油をかけていたのと同様な感覚)こともあるくらいだ。

郷に入れば・・・、監視社会、ボルボ

このようにして、私の日常生活はつぎのようなタイム・テーブルに沿ったものとなった。

06:30 起床 → 07:15 自宅発 → 08:00 事務所着 → 20:00 夕食 → 01:00~03:00 就寝。「日本人はだめだ」と現地の人たちに言われないよう、「郷に入れば郷に従え」を実践したので、週に一度は3時間の睡眠しかとれないことがあった。

仕事の合間を見ていくつかのコンドミニアムを見て回った。取引先の日本人駐在員の住居を訪ねた。部屋の造りやプール・テニスコート・ジム・レストラン・売店などファシリティーに不足はないが、入居者の90%以上が日本人というのが気になった。偶々、そのとき空き室が無かったのが私にとっては幸いだったようだ。日本人が多いところに住むと、プライバシーが無くなるからだ。他国の人たちのコミュニティーでは、どうか分からないが、日本人社会では、常時お互いに監視しあっているように感じる。

あるとき、工場の設備メーカーの女性販売員と一緒にジャパン・クラブのレストランでランチを食べたことがある。事務所へ戻るなり、取引先の日本人から「さっきジャパン・クラブで一緒にいた女性は誰ですか」という電話がかかってきた。彼の奥さんがその日ジャパン・クラブの食堂で、私が女性と食事しているのを見たという報告があったと言うのだ。情報伝達の早さに驚きながら、日本人社会の嫌な一面を実感した。結局、日本人の居住者が20%のところに住むことにした。

通勤用に使う車として、ボルボの中古車を購入した。走行距離10万キロを超えており燃費は悪いが、頑丈な車だった。2年近く使っている間に大型トラックと3回接触したが、私は一度も怪我したことがない。そのボルボでローカルの人たちとタイのハチャイやシンガポールまで遠出したことがある。長時間アクセルペダルを踏みっぱなしだったせいで、現地に到着して車外へ出たとき、最初の1歩が踏ん張れず、危うく転倒するところだった。ハチャイではシャークス・フィンやツバメの巣を、シンガポールでは海鮮料理を食べることが目的だった。

2年の賃貸契約が切れたので、日本大使館近くのコンドミニアムに移転した。同時に、車もボルボの新モデルにした。新モデルは「オート・クルーザー」が装備されていたので、通勤のときも遠出するときにも右足の疲れを感じることが無かった。新車を購入したことにより、「1万キロごとに点検する」と言うボルボのサービス・ポリシーを知ることができた。日本のように「車検制度」がないマレーシアでは、部品の磨耗や整備不良による事故を起こさないよう、日ごろから点検を怠らないようにして、自分の車には自分で責任を持たなければならない。1万キロごとに点検することにより調整するところや交換すべき部品が判明するので車のオーナーとしても安心だ。私は、通勤に往復70キロ、業務に20キロ、昼食時に往復10キロ、1日合計100キロ運転していた。したがって、毎月点検のためにボルボのサービス工場に持ち込んでいたように思う。

就職活動、第2の祖国、健康食品

このように、一緒に食べたり飲んだり都会を離れて旅行したりしているうちにすっかりマレーシアの虜となってしまい、当初2年くらいで帰国するつもりでいたのに、7年も滞在する結果となった。その間に、マレーシアを終の棲家にしようと考えるようになっていた私は、1996年、上記合弁企業を退職後、マレーシアでの再就職に動いた。この就職活動の中で「理系ならご紹介できるところがあるのですが、文系では心当たりがありません」と言われ、自分が大学で理系のコースを選ばなかったことを大いに後悔した。

しかし、パソコンのバックアップ・システムを製造・販売している小さな企業に営業担当として採用された。頻繁に停電があるマレーシアではフィージビリティーのある企業だが、日系企業に売り込みをかけるスタッフがいなかった。私が入社したら、第1段階として日系企業に売り込み、第2段階は現地企業に売り込むことで販路を拡大するという計画だった。ところが、当時のマレーシアは景気が悪く、進出していた日系企業が続々と店じまいして日本に引き揚げていた。顧客となる企業がひとつづつ消滅していく状況では手の打ちようが無かったようで、私を採用してくれた企業も店じまいすることになり、私も帰国せざるを得なくなった。

1997年の帰国以来、毎年航空運賃が安い時期にマレーシアへ行き、バクテ(豚肉を漢方薬で煮たもの)、スチーム・ボート(マレーシアのしゃぶしゃぶ)、海鮮料理(海老、蟹、貝)、ベガー・チキン(チキンを粘土でくるみ火の中で焼いたもの)、チキン・ウィング(手羽先・腿のロースト)、ロティ・チャナイ(厚めのクレープ?軟らかめのピザ生地?)などの食べ物、ドリアン、マンゴスチン、ドラゴン・フルーツ、マンゴ、パパイヤ、ランブータンなどの果物を食べ、気が向けばゴルフやカラオケに興じることが最大の楽しみとなった。

昨(2009)年は9月30日に成田を出発、クアラ・ルンプール国際空港(KLIA)で迎えてくれた友人とクアラ・ルンプール市内にあるなじみのレストランに行った。このレストランは「スタジアム・ネガラ」という名前が示すとおり、市の中央部にあったフィールド競技やサッカーなどに使用するスタジアムで営業していた。スタジアムの壁の外側にテーブルを並べ、雨が降れば、雨よけのテントを広げられるように細工を施してあり、蚊取り線香を足元に出してくれる店だった。この店のチキン・ウィングは逸品だ。日本ではチキンを食べない私でさえ自ら注文するほど美味しい。また、スチーム・ボートは熱源に炭を使っているので、プロパン・ガスを熱源とする他の店のものよりはいい味が出ている。食後のフルーツとして出されるパキスタン・マンゴも格別だ。数年前、スタジアムが建て替えられることになったため、このレストランも移転せざるを得なくなり、現在は、オーストラリア大使館の近くで営業している。

この店でいつものメニューを食べながら、前年最後に会って以降お互い身辺に起こった事柄を報告しあった。友人は米国製の栄養剤販売を始めたらしく、話によると同栄養剤は米国の細菌学・免疫学界のマイロン・ウェンツ博士が創り出したもので、ビタミン・アンティオクシダント・ミネラルなどを含有しているという。懸命になって、その栄養剤が如何に優れているか説明する友人の販売成績向上に寄与するため、栄養剤5種類を購入した。日本に持ち帰り服用中だ。服用期間が長くないので確かなことは分からないが、約1年、整骨院で受けた電気・マッサージ治療でも消えなかった肩の痛みを最近殆ど感じなくなったのはその効果かも知れない。

この類のものは、以前にもマレーシアのローカル・スタッフ達から勧められたことがある。

ひとつは台湾製の霊芝。血液を浄化するというので私は高血圧対策として2年ほど服用した。日本では入手ルートを見つけられず、帰国後、服用していないこともあり、効果は確認できていない。しかし、結婚後10年間子供に恵まれなかったローカル・スタッフは、私に霊芝を勧めながら自らも服用していたが、その後3度出産している。霊芝が何がしかの効き目があることを実証しているのかも知れない。

2つ目は日本製のオー・エム・エックスだ。名前がローマ字のオーではじまる岡山大学の教授が山奥の果物と海藻類から創り出したもので、人体内の善玉バクテリアと悪玉バクテリアの割合を理想的な8対2(生まれたときの状態)に戻す働きがあるという。
私はこれもまた血圧対策で帰国前1年間、霊芝に加えて服用しはじめたが、帰国までには効果を確認できなかった。日本でも入手可能だが、コストが高いので帰国後は服用していない。
従って効果のほどは確認できていないが、マレーシアのセミナーでは糖尿病やデング熱が治ったということが報告されていた。

職人の誇り

昨年は、マレーシアに来て2ヶ月しか経っていないという銀座の寿司店元経営者の「イタチョウ」と呼ばれている日本人に出会った。「イタチョウ」は銀座の店をご子息に譲り隠居生活を送っていたが、「何もしていないなら、マレーシアで自分の店を手伝ってくれ」とモン・キアラにある日本レストランの経営者に誘われてマレーシアに来たのだという。「イタチョウ」から、マレーシアの食事ができるところを紹介して欲しいと頼まれて、クアラ・ルンプールの中心部ジャラン・インビとジャラン・ブキット・ビンタンの間にあるオープン・エアの海鮮料理屋「レストラン・エイシア」に案内した。

広い敷地にある柱と屋根だけの大きな建物の中で数十軒の屋台がある。そのひとつで、オーナーである30歳代後半の男性が自ら接客・調理している。セオンという名の彼とは1991年からの付き合いだが、私の顔を見ると「海老・蟹・貝?」と知っている数少ない日本語で話しかけてくるのが常だ。昨年も、いつものとおり挨拶代わりの注文確認をしてきた。我々のメンバーはイタチョウとレストランのキャッシャー、それにレストランの常連客をまじえ4名だったので、海老・蟹・貝のほかにチャーハンと野菜も注文した。この店で食べるときは、海老はブラック・チリ・ソース炒め、蟹はレッド・チリ・ソース炒めが、貝はジンジャー入りがお勧めだ。マレーシアでチャーハンを食べるときは、レッド・チリーを1ミリ幅に輪切りにし醤油に浸したものを、一口に一切れづつ混ぜて食べると美味しい。マレーシアで食べられている米の性質が関係しているような気もするが、日本のチャーハンでも赤唐辛子を醤油に浸したもので、一度試してみたいと思う。

飲み物の注文に際し、食後ドリアンを食べるか否かイタチョウと常連客に聴いてみた。アルコール飲料とドリアンが体内で一緒になると死に至る場合もあるからだ。ドリアンを食べないということなのでビールを注文した。数年前、現地の友人から、お父さんがブランディーを飲んだ日にドリアンを食べて急死したという話を聞いたことがある。友人がドリアンを買って帰宅し家族全員で食べたら、お父さんの様子がおかしくなった。救急車で病院に運んだが翌日亡くなったという。調べてみたら、お父さんは昼間ブランディーを1本空けていたが、家族で誰もその事実を知らなかったということだ。

セオンが腕を振るい最初に出てきた蟹を食べながら、前日、日系スーパーで購入した米飯がまずかったので、マレーシアで食べる日本食の質を話題にした。「スーパーの惣菜コーナーで購入する米飯は美味しくない」と話の口火を切ったところ、イタチョウから「自分も到着直後、こちらで炊く米飯の味が悪い事に気づいた。いろいろ試行錯誤の末、炊き始めの水温が高いのが原因だと感じたので電気釜のスイッチを入れる前に水温が下がるよう氷を入れている」という極めて貴重なコメントを得た。美味しいご飯を炊き上げるため、日々研究を怠らない、職人の誇りというものを感じた。

発展するマレーシア

ここ数年、来る度にクアラ・ルンプールの街がめまぐるしく変化していることに気づいた。新しい道路が出来たり両側通行だったところが一方通行になったりしていて、駐在していたころはボルボを乗り回してどこにでも行くことができた私も、現在はハンドルを握る自信が全く無い。

昨年は、毎日、ドラゴン・フルーツとパパイヤの朝食を済ませると昔の競馬場跡地に建設されたツインタワーまでホテルから往復1時間の距離を散歩するのを日課とした。ツインタワーの裏側は公園になっていて、さまざまな樹木があたかも自然に生えていたかのごとく配置植樹されている。園内の樹木の傍にある英語とマレーシア語の説明版をいくつか読んでいて、いつの間にか1時間が過ぎているのに気づくこともあった。

公園を一周するように設けられているジョギング・コースを歩いているとき、私が2年間住んでいた「競馬」という意味の単語が名前に入っているコンドミニアムが間近に見えてきて急に懐かしさを感じた。しばし立ち止まって観察していると、公園に隣接する駐車場とコンドミニアムとの間には道路が新設されて、そこを自動車が行き交っていた。前には無かった光景だ。周囲の様子もすっかり変わっているので、その道路がどこへつながっているのか殆ど見当がつかなかった。

そこに昔あった競馬場で場外馬券を買ったことを思い出した。取引先のスタッフたちに「競馬に行こう」と誘われてついて来て、馬券を買ってからスタンドに上っていった。大勢の観客がいるのに、馬の姿がまったく無かった。「レースはシンガポールで行われている」という。そのうちに、場内のスピーカーから実況放送が聞こえてきた。レースが終わると周りの何人かが興奮していた。当たり馬券で大金(?)を稼いだようだ。コーラを仲間に奢っていた。

いつごろだったか明確な時期は分からないが、午後、大雨が降ったことがある。事務所からボルボを運転して「競馬」コンドミニアムへ向かった。普段30分くらいでつけるところだが、1時間半掛けてコンドミニアムから直線距離で百メートルくらいのところにたどり着いた。道路わきの大木が倒れ道をふさいでいたので、やむなくUターンして回り道した。交通渋滞のためさらに2時間ハンドルを握らざるを得なかった。交通渋滞のため帰宅時2~3時間、車の中にいたことは、わりかし頻繁に経験したと記憶している。

公園との往復ルート、ホテルのすぐ近く、大きなショッピングセンターが建立されている。ショッピングセンターから公園側の道路を跨ぐように歩道橋が造られ、歩道橋と公園につながる道路の間にはエスカレーターが備え付けられ、人は安全と思われるも意外と危険な横断歩道を歩かなくてもいいようになっている。私が駐在していたころは、そこに小学校があり、下校時に校門前を車で通過するのは大変だった。子供たちを迎えに来た親たちの車が列をなし、渋滞を惹起していた。また、大きなレストランがあった。何度か食事をしたことがあるが、一度も満足したことはなかった。料理の質が値段ほどではなかったからだ。美味しいものが食べられると期待していたのに、出てきた料理が美味しくなかったときの失望感は、どのように表現したらいいかわからない。

もっと信頼できたら

私は今でもマレーシアの銀行口座を維持し、マレーシアに永住する時期がいつ来てもいいように備えている。

昨年10月、ある買い物に関して現地銀行の小切手で支払ったところ、翌日その小切手は換金できなかったと言われた。直ちに銀行の窓口で調べたら「小切手の様式が変更され、お客様手持ちの小切手帳は現在使用できません。新しい小切手帳をご注文ください。この件に関しては半年前から毎月のステートメントに注記してあります」とのこと。最近のステートメントを読んでみたら確かにその旨注記してあった。普段、その注記の場所にはキャンペーンの案内が目立ち、マレーシアに住んでいない場合無意味との理解で、ここ数年ステートメントの注記は読んだことがなかった。

「注記を読まなかった自分も悪いが、このような重要な事項は別便で通知すべきだ」と同銀行の役員をしている日本人に苦情のメールを配信しておいた。日本人顧客からの苦情なので何がしかのアクションを起こしてくれるものと期待しているが、はたしていつ改善の動きが始まるか、今後見守って行きたい。

私は同銀行取扱の2種類のファンドにも投資している。数年前までファンド担当部門から半年ごとにステートメントが届き、自分の投資に関する現状が把握できていたが、ここ数年その報告を見たことがなかった。昨年、出発前に担当部門へ国際電話でステートメントが届いていない理由を聞いてみた。「本件、お客様の預金口座開設の支店取扱となっていますので、同支店に問い合わせてください」という答えだった。クアラ・ルンプール到着後、同支店の窓口で「当方では詳細を把握できません。本店の投資部門で聞いてみてください」と言われ、同支店前からタクシーで本店へ移動することとなった。

乗る前に運転手に料金を尋ねたら「メーターどおりです」との答え、当初から雲助タクシーと思い込んでいた己が恥ずかしい、マレーシアも変わったなと感じた。銀行本店7階の投資部門では15分ほど待たされた結果「1階のパーソナル・バンカーが担当するのでご案内します」と言われ、投資部門受付の女性が1階へ連れて行ってくれた。そこでようやく私の投資の現状が判明し、担当者が3つの約束をしてくれた。
(1) 2口のファンドに関しては、随時、残高をメールで連絡する。
(2) 別の資金運用先に関する情報を提供する。
(3) すべてのコレポン・アドレスを日本の住所に変更する。

しかし、この約束は昨年11月末時点で果たされていない。
この点については、そのうちに前出の日本人役員に直接協力をお願いすることになるかも知れない。何故なら、「焦るな、慌てるな、当てにするな、安心するな、諦めるな」というイスラム世界のビジネスに必要な五行がマレーシア社会にも適用できるような気がするからだ。

こちらの依頼案件は容易に引き受けてくれるが、なかなか実行されない。「あせるな、あわてるな」だ。痺れを切らして催促すると「今日やる」とか「明日やる」とか約束してくれる。しかし、その日になっても事態はまったく前進しない。再度、催促をするが、先方の返事と結果は変わらない。「当てにするな」だ。しぶとく何度か催促して、ようやく事態が前進するかのように感じるが、前進は無い。心強い返事をもらっても「安心するな」だ。その後も諦めることなく何度か催促しているうちに、ようやく実行される。「諦めるな」だ。五行が当てはまらないと推測される日本人なら遅滞なく問題を解決してくれるのではないかと期待している。

それでも私はマレーシアが好きだ、だからこの国にはいろいろな面でもっともっと発展してもらいたいと思っている。この国が発展するための必要条件は、まず国民一人一人が他人との約束を守ること、畢竟、時間を守ることだ。時間面でのルーズさは私が駐在していたころから改善されていない。他人を待たせることに少しも罪悪感を持たず、交通渋滞のせいにしてしまう。渋滞はいつでも起こりうるのだから、それを考慮し時間的余裕を持って出発するのが信用を得る第一歩だということに早く気づいて欲しい。今年9月の訪問時に少しでも改善の証が確認できればバグースだ。

スペインにて

北S42卒 南山大学法学部 黒田清彦

この文章がコリー新聞に掲載される頃には、私は帰国しているであろうが、年頭に塾友会の松本事務局長から御依頼を頂いたので、昨年4月から研究休暇で来ているマドリーでの見聞を思いつくまま記してみた(2010年1月15日記)。

歴史の記憶に関する法律

1975年の独裁者フランコ死去後の1978年憲法に象徴されるスペインの民主化は、内戦(1936~39年)およびフランコ時代の歴史的検証を促した。その流れを受けて、2004年から政権の座にあるサパテロPSOE(スペイン社会主義労働者党)政府は、
2000年に設立されたARMH(歴史の記憶回復協会)などの民間団体と協力して、内戦および独裁時代に迫害を受けた人たちの復権・補償を目的とする「歴史の記憶に関する法律」を2007年12月に成立させた。同法に基づき、
独裁政権により拉致・銃殺されて無造作に埋め捨てられた数多く(上述協会のシルバ会長によれば3万体)の遺体の捜索が進められ、約1,300体が既に発掘されている(2006年以降毎年日本から発掘作業に参加していたアラカワ・トオル氏は、当地の新聞によれば昨年10月に新潟で死去)。

他方、政府・地方自治体はフランコ主義象徴物の撤去を推進、同法成立前の2003年にはマドリー最後のフランコ騎馬像が撤去されたし、昨年6月にはマドリー市議会が「名誉市長」・「金メダル」などフランコの栄誉剥奪決議を採択、
7月にはバルセローナにあるフランコ主義の紋章プレート336個の市予算による撤去が開始されるなどしている。

男女平等・妊娠中絶・同性婚

政府は女性尊重の施策に積極的である。「歴史の記憶に関する法律」と同じ2007年に成立した男女平等法では、職場などにおける均衡の目安として、男女の一方が40~60%という数字を挙げている。
ちなみに、政府閣僚は、サパテロ首相を含む18名の閣僚のうち半数が女性、3名の副総理大臣のうち2名や国防大臣も女性である。2008年には、労働・社会省(現労働・移民省)から「平等省」が独立して、
初代(現)大臣(女性)が31歳という史上最年少で迎えられたことが話題となった。イタリアのベルルスコーニ首相が「スペイン政府はピンクすぎる」と発言して物議をかもしたことを御記憶の方もいらっしゃるだろう。
大学でも女性教員が多い。一部の私学は別として、一説には公立(スペインの大学は殆どが自治州立)大学では約6割が女性とか。日常生活では、市役所の力仕事(大きなコンテナ相手)であるゴミ収集に従事する女性も珍しくない。
民間でも例えば会社の経営機構の構成にも及ぶことが男女平等法で規定されているし、証券取引委員会のコーポレートガバナンス統一コード(2008年から上場会社に採用義務付け)では取締役会に女性取締役を含めるべきことを勧告している。

女性の権利との関係では、妊娠中絶法も一つのトピック。かつて刑事罰の対象であった妊娠中絶は、1973年に、母体の危険および胎児の重大な心神障害の場合に法定の厳格な要件の下で合法化され、
2000年には強姦による場合も追加されたのであるが、昨年3月からは、政府主導で16歳以上の未成年者(スペインの成年は18歳)の中絶自由化が公的議論の対象となった。激しい論争の末、
受胎14週目までであれば親の同意または許可がない未成年者でも専門医への中絶依頼が可能であるとする法案が、昨年12月に衆議院で可決された。

ついでながら、2005年の民法改正によって、スペインはヨーロッパでも数少ない同性婚完全容認国となった(同性婚を認める国は多いが、法的に男女の夫婦と全く同じ扱いをする国は少ない)。

グルメ

何度か訪れたスペイン北部のバスク地方はグルメの伝統があり、フランコ(1975年没:上述)以降これが全国的に発展していった「新バスク料理」、および1980年代に始まった驚きや意外性を標榜する
(その意味で日本の食材もよく使われ、ワサビ・ショウユ・ワカメ・コンブ・シイタケはもとよりウマミといった日本語も知られている)エル・ブジに代表される「地中海型食文化」がスペイン・グルメの二大特徴であろう。
北は大西洋に含まれるカンタブリア海、南と東は地中海、西は「リアス」式海岸という言葉の発祥地ガリシアを含む大西洋、と海に囲まれたこの国の海産物の豊富さ、そして各地の多様性から産出される豊かな農牧食材の数々。
各店や料理人が複数素材から独自に考案したピンチョス(一口つまみ料理)はお勧め品、いくつかのバー(立ち飲み屋)やレストランで、絶妙な味に「ウーン」と心底うなることもしばしばである。さらに、最近東京丸の内に出店したとの噂を聞いて訪れたスペイン
王室御用達のチョコ専門店「カカオ・サンパカ」のマドリー店では、濃厚なホット・チョコドリンクの高貴な味に、甘党でもない私が虜になってしまった。初の海外店を日本に設けたチューロス(揚げドーナツ)とチョコドリンクの老舗(創業百年)「サン・ヒネス」は、
いつ行っても行列である。ちなみに、後者が出店した商業施設「ららぽーと新三郷」は、北寮平成17年卒の黒田英佑(筆者の息子)が三井不動産のスタッフとして関わったこともあって、元旦に日本店の写真を持参して親子で訪れたところ、特別の歓待を受けたことも(親馬鹿ながら)記しておこう。

ワインについては、リオハ・ワイナリー・ツアーで随分学ばせてもらったが、まだ蘊蓄を傾けるレベルにはない。しかし、決してフランス他の諸国に引けを取らない名品揃いであることは間違いない。
一流デパートの広いワインコーナーの一隅にそこだけ鍵がかけられた70~200ユーロのベガ・シシリア社製の高級ワインは、絶品以外の何物でもない。一度だけ味わう機会があったが、日本で購入すれば1本3~5万円くらいであろうか
(先日、別メーカーではあったが、1本1,000ユーロ近くのスペイン産赤ワインが厳重に保管されているのを見た)。もっとも、我が家の毎日の食卓に供されるのは、当初は1本1~3ユーロ、最近では舌が肥えたと言っても4~12ユーロ(500~1,500円)程度のワインであるが・・・。

懐かしい人々

私の長期滞在は、1970年代・1980年代に続き3度目であるが、懐かしい人々の変わらぬホスピタリテイに感謝するばかりである。70年代に私が子守をしたヤンチャ坊主ホアキンが地方の大学助教授となって、
当時の彼より年上の子供二人を連れ奥さん共々遠方から訪ねてくれた。私どももクリスマス休暇に彼らの住むクエンカという町を訪れ、今は隠居生活を送っている御両親とも38年ぶりの再会を果たした。80年代に客員として過ごした大学の同僚たちは私の個人研究室を用意、
開業弁護士としてあるいは地方の大学で活躍するかつての仲間も行く先々で歓待してくれる。当時息子たちが通った幼稚園の先生ベテイは主として妻のスペイン語原稿チェック役である。90年代に日本へ留学して私が指導した若者サルバドールは今や法学博士の弁護士として活躍、
現住居を決めるに当たり家族ぐるみで献身的に動いてくれたし、日本におけるとは逆に今度は私が教えを請うことが多く、法律論文も添削してもらっている。

この他、昨夏ヨーロッパ議会議員となった憲法学者ホアン・フェルナンドは、スペイン筆頭候補として多忙な選挙戦直後にもかかわらず、時間を作って私を夕食に招待してくれ、拙宅(名古屋)でのバーベキュー・名古屋(当時:現在は愛知県)
弁護士会や信州の山小屋での法律談義を思い出しながら語り合い、彼が司法大臣のときに起草された上記「歴史の記憶に関する法律」に関する私の質問には、後日ストラスブルグから起草当事者として詳細なコメントを寄せてくれた。
牛追い祭りで有名なパンプロ?ナ(山口市の姉妹都市)で起業、奇抜でユーモラスなデザインのTシャツや文房具・小物類を売り出して世界的に有名になったバスク人ミケル(ククスムス社)は、訪れた私ども夫婦に自分の広いマンションを数日間貸切の飲み放題・食べ放題で使わせてくれ、
マンションの外でも歓待してくれた。日本人顔負けの日本語を操るサラゴサ(首都マドリーとバルセローナとの中間にある)の弁護士パコは、自分も教えるサラゴサ大学で私に招待講演を手配、自宅での宿泊を含め家族そろって私どもの面倒を見てくれた。このように、スペイン人の熱い友情の例は枚挙に暇がない。

またスペインに住みたい

官僚主義の非効率や不況(失業率20%)による治安の悪化というマイナス面は否定できないが、スペインは、かつてのEU優等生としての誇りを取り戻すべく、官民挙げて努力をしている。今年前半はEU議長国でもある。
ヨーロッパの一員としての活躍が大いに期待されるとともに、私個人は、先ほど御紹介した質の高い(しかし値段は実にリーズナブルな)グルメの数々の他、以前と比べものにならない交通網の発達やエコの進展(風力発電が全エネルギーの14%近くを占める導入量はUSAに次いで世界第二の先進国)
などの長所を伸ばして欲しいし、家族・友人の輪(和)を重んじる温かい伝統が変わらぬことを願っている。可能ならば、退職後も長期滞在の望みが叶えば、と思うこの頃である。

*以下にアクセスすれば、さらに詳しい情報が得られます。
http://derecho-hispanicojp.seesaa.net/