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日本語表記の過去・現在・未来についての考察~その3~ (H16年北卒 谷前 憩介)

日本語表記の過去・現在・未来 その3

 

明治維新と漢字を巡る運命の変転

 

平成16年北寮卒 谷前 憩介

 

日本に大陸から漢字が伝来し、本格的に使われはじめたのは4世紀頃という意見もあれば紀元前からという意見もあり、まだまだはっきりしない。ただ確かなのは、日本人は異国の文字である漢字を正当な文字としてありがたがって使ってきたということである。

 

日本語と中国語では文法も発音も全く異なるが、しかし漢字以前にはまともな文字を持っていなかったところに中国から漢字がやってきたものだから、どうにかしてでも日本語は漢字で書き表されねばならなくなった。そのうちに平安時代の頃には漢字を加工する形で我が国固有の表音文字であるひらがな・カタカナも生まれたが(最近は古朝鮮文字が起源という説もあり)、これらは漢字と比べると一段下等な文字として軽く見られ、公式の文書には相変わらず漢文が使われ続けた。かなとは假名、つまり仮の字であり、一方で漢字こそは真名(まな)、本当の字とされた。

学問とはすなわち膨大な量の漢字を覚え、いにしえの聖人達の教えを記した異国(中国や天竺)の古典を学ぶことであった。前回で触れたように、賀茂真淵や本居宣長らの国学者はそのように異国の文字や思想をむやみに尊び、日本本来の精神性を軽んずる風潮を批判したが、江戸時代の中頃までは世の中は概ねそんな感じであった。

 

ところが、幕末にもなるといよいよ近代合理主義で武装をした西洋人たちが圧倒的な科学技術とその副産物である軍事技術を背景に東洋まで本格的に進出してきた。

漢字の本場であり、世界の真理について語り尽くした(はずの)いにしえの聖人たちのふるさとであったはずの中国(清王朝)は、いともあっさりと西洋列強に軍事力で敗北し、国を食い荒らされた。

中国歴代王朝で伝統的に行われてきた官吏登用試験“科挙”は、人類の歴史上もっとも公正で、もっとも難易度の高い試験であったという。受験者は蛍の光窓の雪、何年も場合によっては何十年もかけて四書五経をはじめとする膨大な量の古典を覚えねばならず、晴れて合格し高級官僚となる資格を得た者たちはさながら人間図書館のごとき比類なき知的エリートであった。

ところが、そういうエリート達がいくら膨大な古典や漢字の知識を駆使して美しい詩文や高度に哲学的な論文をしたためようとも、西洋で発展した近代合理主義の前には、ほとんど無力であった。“教養”というものの質が根本的にそれまでと変わってしまったのである。

 

もはや、論語を素読し漢字の読み書きを学ぶような旧来の学問だけでは西洋には太刀打ち出来ない。というよりも、漢字などいくら覚えたところで西洋に勝てぬのなら、いっそのこと学ぶだけ無駄な漢字など廃してしまえばいいのでは……?

 

■前島密と福沢諭吉  幕末明治と漢字制限論の興り

 

明治維新後に政治家として活躍し、郵便制度の確立に尽力したことで知られる前島密(1835~1919)は、江戸幕府が滅びる直前の慶応2年、当時仕えていた最後の将軍徳川慶喜にあてて「漢字御廃止之議」という建白書を提出した。内容としては

 

・日本人は学問といえば漢字を学ぶことばかりに追われており、一般人は知識から遠ざけられてしまっている。

・漢字や中国を崇拝するばかりで愛国心は薄れ、また科学技術など実用的な学問を軽んじる事で西洋の先進文明からも取り残されてしまう。

・今すぐに漢字を全廃することなどできないしその必要のないが、最終的には漢字の使用をやめることを目標と定め、実行とていくことが必要である。

 

漢字廃止というといかにも極論に聞こえるが、こう見てみるとその意見には当時の時代にあっての危機感や前島密の誠実な人柄がよくあらわれている。結局まもなく徳川幕府は終わりを迎えたが、前島密は明治新政府に仕えた後も同様の提言を続け、明治33年(1900年)には文部省に発足した国語調査委員会の代表となった。

 

明治維新後、「学問ノススメ」などで近代日本の思想形成に絶大な影響を与え続けた啓蒙思想家にして慶應義塾大学の創立者、一万円札でお馴染みの福沢諭吉も、前島密と同様の主張を維新直後の明治六年(1873年)、「文字之教」という著作の中で説いている。漢字を覚え、かなと交えて文章を巻くことは非常に不都合であり、いずれは漢字は廃されるべきである。しかし即座に廃止することは出来ないので、今のところは可能な限り難しい漢字をむやみに使用することのないよう心がけつつ、時勢を待たねばならない…。

 

http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_title.php?id=73%7C

 

福沢諭吉は、自由平等民主主義に資本主義、およそ現在の我々をとりまく社会思想のほとんどを一人で網羅していたような日本思想史上の一大巨人であったが、そんな福沢がかなり早い段階から漢字制限を主張していたのは興味深い。おそらくは、漢字の母国である中国の惨めな現状を鑑みてのことでもあったのだろう。中国においても、科挙制度の廃止や漢字字体の簡略化、表音文字の導入の試みなどがなされ始めていた。

 

 

■それでも 漢字を使わざるを得ない

 

このように明治期に盛り上がりを見せつつあった漢字制限であったが、むしろ明治期に入ってからそれまで以上に漢字の必要性が増す、という奇妙なねじれ現象が起こってしまった。

 

ここで注目に値するのが、時代はやや遡るが江戸時代中期の1728年に漂流の末ロシアにわたった鹿児島の少年ゴンザのケースだ。

11歳の少年であったゴンザは父の手伝いで見習い船乗りとして鹿児島-大阪間の航海に参加していたところ、大嵐にみまわれ船は難破、漂流の末カムチャッカ半島にまで辿り着いた。その後ロシア本土のペテルブルグに送られたゴンザはロシア語をマスターし、アカデミーで学びながらロシア人学者らと共に露日辞典の編纂に関わることとなる。まるで漂流の末に米国に渡ったジョン万次郎(郷土の偉人です)のような人生だが、万次郎とは違い日本へ帰ることなく、21歳の若さでロシアの土となった。ゴンザの編纂した「新スラヴ・日本語辞典」は現在の日本でも詠むことができる。

 

短期間でロシア語をマスターしロシア人達をして「天才少年」と驚かせたゴンザであったが、残念ながらもともと無学な片田舎の少年であったため、漢字漢語への深い知識など無論持ちあわせてはいなかった。そのためか、彼の編纂した辞典や単語集には我々がみるとどうも冗長でしっくりこない部分がいくつか見られる。

 

たとえば神罰という言葉を彼はバチカブルフォトケン(罰かぶる 仏の)と記した。温泉ツチノナカンユ(土の中の湯)内蔵ウチノワタ(内の腸)、貧血チガスクナカ(血が少なか)、歴史ムカシノコト(昔のこと)、大都会フトカクニ(太か国)、といった具合。いや、確かに意味は合っているのだが。ちなみに女郎屋ワルカコトスルトコロ(悪かことするところ)だったようだ。まぁ、少年だったんだもの、仕方ないね。

 

ゴンザの残した辞典は現在では当時の鹿児島弁などを知る上の貴重な資料となっている。

 

仮に、仮にゴンザが漂流前に漢字の知識を叩きこまれていたら、もう少ししっくりくる訳語を用意出来たであろう。ここから明らかになっているのは、日本語は漢語抜きにはどうもしっくりこないという厄介な日本語の宿命だった。

 

千数百年ないし二千年以上の昔から漢字が中国の先進文明と共に日本に定着して以来、日本人は高度で複雑な概念を表現するためにずっと漢字や漢語に頼りっぱなしであった。もし、漢字の伝来がもっと遅いかもしくは起こらなかったとしたら、日本古来のやまと言葉は独自に発展し、それら複雑な概念をも表現できるようになったかもしれない。文字だって漢字の影響なしに独自に発明したかもしれない。

 

しかし、そうはならなかった。仮に漢語を一切抜きにしで文章を構築しようとすると、とたんに日本語は妙に脱力して冗長になってしまう。政府をマツリゴトスルトコロ、とか二酸化炭素をスイノモトフタツクッツイタスミノモト、などと表現せねばならなくなった日には……。

 

あるいは、ゴンザやジョン万次郎のように日本人全員が短期間で英語をはじめとする外国語を完璧にマスターしてみせれば西洋文明の摂取もより容易になったであろうが、そんなことは絶対に不可能だ。ならば、西洋の文明を日本語として翻訳していくに他はない。そして、翻訳には漢字が不可欠であった。

 

こうして、日本人は西洋文明を次々と漢字化して翻訳する道を選んだ。その先頭に立ったのは、漢字制限を主張したはずの福沢諭吉であった。

 

(続きます)

 

 

 

 

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