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日本語表記の過去・現在・未来についての考察~その4~ (H16年北卒 谷前 憩介)

日本語表記の過去・現在・未来 その4

 

近代世界への漢字適応の試練

 

平成16年北寮卒 谷前 憩介

 

 

和製漢語 続々誕生

 

西洋文明の日本への翻訳普及を試みるにあたり大きな役割を果たしたのは、皮肉にも近代世界においては不要とみなされた漢字であった

漢字は一語一語に発音だけでなく意味も与えられた表語文字である。アルファベットやかな文字などの表音文字にはそれ単体に固有の意味は持たないが、漢字であれば適切な語の選択組み合わせによって、多様な概念を表現することが可能だ。

 

たとえば英語のハイドロゲン(hydrogen)はハイドロ(水の)とゲン(生じるもの)という語句から成り立っているが、それを水の素、すなわち“水素”と表現すれば簡潔でおおよその意味は理解できるようになる。

 

福沢諭吉をはじめとする西洋文明の紹介者達は、そんな漢字の造語能力の高さを活かし、西洋文明の諸概念を次々と翻訳していった。こんにち、新聞紙上などで使用されることの多い漢語の大半はこの頃の日本で生まれた和製漢語である。参考例としては、

 

社会(social) 人民(people) 民主主義(democracy) 資本主義(capitalism などなど数え上げたらキリがない。いずれも元となった英語など外国語をその意味に準ずる形で漢字化がなされているのが特徴だ。

 

例えば政治経済や社会科学に関する言葉だけでも、

 

政府 官庁 公務員 共和国 議会 議員 行政 選挙 経済 会社 企業 銀行 証券 金融 機械 計測 共産主義 などなど。

 

その他にも科学や哲学、軍事、医学、文化芸術、教育、おおよそ近代世界を象徴するほぼ全ての分野において、これら新造の和製漢語は大量に発明され、普及・定着した。日本人が明治以降、それまでの自分たちの世界観と全く相容れることのなかった西洋文明の摂取がそれなりに軌道に乗ったのも、これら和製漢語による近代的概念の翻訳が果たした役割は無視できないものがあるだろう。

いや、日本だけにとどまる話ではない。当時東アジアではいち早く近代化にかじを切った日本には、漢字の母国である中国からも多くの留学生が訪れており、これら和製漢語はほぼそのままの意味で中国にも持ち帰られた。また、日本による併合という経緯によってではあったものの朝鮮にもこれら和製漢語は後年浸透した。

例えば中華人民共和国という国名のうち、“人民”と“共和国”は上にあげた通りに和製漢語である。対日関係は最悪と言ってもいい朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)についても、朝鮮以外は上に同じだ。

これは、当時日本で生み出されたこれら和製漢語が、意味の上からでも大した違和感がなく中国人たちにも理解しやすかったという事を意味している。(明治以前の和製漢語は、奉行とか成敗とか茶番とか、字面だけでは中国人にはほとんど意味がわからない。)

互いの不幸な歴史もあって現在日中関係は良好とは言いがたく、中国国内の有識者の間でもこれら日本由来の和製漢語の使用に対し抵抗感を抱く人も少なくはない。

それでも以前とある中国人の識者が和製漢語を「漢字の母国である中国に対する日本からの恩返し」と、前向きに評価してくれたことは記憶に留められるべきであろう。

 

 

■福沢諭吉の名調子 「世界國盡」

 

 音のみを表現する表音文字を持たなかった中国では、仕方なくヨーロッパの国名などを表記するにあたっても無理やりに漢字を当てはめて表現してきた。以前紹介した江戸時代中期の新井白石による「西洋紀聞」にも、欧羅巴(ヨーロッパ) 亜細亜(アジア)などそれら中国由来の漢訳地名がいくつか登場し、そのまま現在でも通用するものも多い。

 

明治2年、福沢諭吉はアメリカの教育者ワルブランクの著書を世界國盡(せかいくにづくし)として翻訳出版しているが、それにあたり大量の漢訳地名を動員した。しかし日本には平仮名や片仮名などのかな文字があるのに、何故わざわざ非漢字文化圏の海外地名を漢字で表現しようとしたのだろうか。例えばわざわざ亜米利加なんて書かずにアメリカでよくはないか?福沢は述べる。

 

「…此書中にはつとめて日本人に分り易き文字を用いるやうにせり。実はいろは計り用いてもすむべき筈なれども、本字(注:漢字のこと)を記して脇に假名(かな)を附れば記憶するに便利なり。(たと)へば南亜米利加のぺいりゆう(注:ペルー)といふ(ところ)(へい)(りゅう)と記してあれば、勘平の平と揚柳の柳なりと(ムネ)に記しておぼへ易し。」

 

いきなりカタカナ語で国名を覚えさせられるより、日本人に馴染みの深い漢字を用いたほうが覚えやすいというわけだ。この調子で、例えばインド関連だけでも印度(インド)、雁寺洲(カンジス)、軽骨田(カルカッタ)、など楽しい地名が並ぶ。傑作は荒火野(アラビア)だ。

 

現在では、さすがにアメリカをわざわざ亜米利加、フランスを仏蘭西などと書くことも一般的にはなくなったが、例えば日本とアメリカの貿易摩擦なら日米貿易摩擦、フランスに渡ることなら渡仏というようにすっきりした表現が可能なので、これら漢訳地名の恩恵は無視できないものがある。

 

また、注目に値するのは福沢諭吉の文体だ。とにかく啓蒙思想家として平民にもつとめてわかりやすく西洋を紹介しようとした福沢は、ここで庶民にも馴染みの深い五七調を使った。例を挙げてみよう。

 

「頃は安政五年の秋、十三州の名代人四十八士の連判状、世界に示す檄文に英吉利(イギリス)王の罪を責め、自ら建てし合衆国(中略) …こころに誓ふ國のため、失ふ生命得る自由、生理屈して生きんより、國に報る死を取らん、一死決して七年の、長の月日の攻め守り、智勇義の名を千歳に、流す血の河、骨の山、七十ニ戦の艱難も、消て忘る大勝利…」

 

 アメリカ独立戦争の記述である。赤穂浪士の討ち入りではない。アメリカ独立戦争である。

 

以前も記した通り福沢諭吉は漢字制限論を主張したこともあったが、それでも人民に益ありと判断すれば漢字も効果的に用いてみせた。これは福沢諭吉がとにかくわかりやすさを心がけていたからであり、後年ややイデオロギッシュな傾向を帯びるようになる漢字制限論の展開とは一線を画すべきかもしれない。

 

 

■要請 養成 陽性 妖精

 

開化期に漢字の果たした役割は広く認められなければならないが、しかし、それがかえって日本語を更に面倒くさい言葉にしてしまった部分があることもまた事実である。

明治以降に短期間のうちに和製漢語は次々と生まれ順次社会に広まっていったが、それらの多くは元となった西洋語の意味を漢字に翻訳して表現することが重視され、発音に関しては二の次であった。その結果、同音異義語が大量発生したのである。

 

たとえばカテイという発音に対しては家庭に過程に仮定に課程、シンカなら進化に真価に深化、カンソウなら完走に感想に間奏に乾燥…、これもあげたらキリがない。

 

これらの漢字は中国ではそれぞれに発音方法が異なるため日本のように同音異義語として混乱が生ずることが少ないが、中国語と比べ発音に制限の多い日本語ではどうしても同じような発音になってしまう。

こういう同音異義語が会話中に出現した場合、我々日本人は前後の文脈から判断して「ああ、この場合はコレだな」と目星をつけて判断する、というようなことを無意識化に行っているが、それでも市立と私立のように紛らわしい場合は、ワタクシリツとかイチリツなんて変な読み方をしたり、場合によっては文字に起こして説明する必要も出てくる。

これはよく考えたら変な話しである。いかなら言葉も、まずは声に出しての発音が先にあり、文字はあくまでおまけである。世の中に固有の文字を持たない言語はいくらでもあるが(むしろ固有の文字を持つ言葉のほうが少ない)、固有の発音を持たない言語は多分ない。そういう意味では「文字に起こさないと本当の意味が理解できないことがある」という日本語の特報は極めて特殊、今風に言えばガラパゴスなのだ。後に詳しく紹介するが、カナモジ論者が批判したのはまさにこの日本語における文章第一・発音二の次な空気であった。

同音異義語にかぎらず、漢語の中には字を見ないことには意味が理解できない言葉が少なくない。例えば和敬塾にしても、いきなりワケイジュクと言われた所でそこから「平和の和に尊敬の敬」という字を瞬時に理解する人はほとんどいないだろう。

 

 

■サイゴウ ヲ シサツ セヨ

 

明治維新後、急速な近代化を遂げつつあった当時の日本であったが、その道行は決して順調ではなく、様々な階層からの不満や反発は絶えなかった。

庶民からしてみれば期待していた世直しの実感は得られず、租税と兵役の負担が重くのしかかった。いにしえの天皇中心の律令国家への復古を夢見た国学思想家たちからしても、明治維新後誕生した近代政府は自分たちの理想とはほど遠いものだった。

そして、明治維新において主導的な役割を果たし、自ら血を流してまでこの空前の大革命に尽力した武士階級は、その特権的地位を失い没落した。

 

社会各層からの不満もあって、明治初期は各地で不平士族による小中規模の反乱が頻発した。その中でも内戦のレベルに達したのは、最大にして日本最後の大規模内乱となった西郷隆盛による西南戦争(明治10年)であろう。

 

真偽のほどはよくわからないが、西南戦争の有名なエピソードに電信に関する話がある。

 

幕末に日本に紹介された電信技術は、当時最新の高速情報伝達技術として次第に大都市間に普及しつつあった。原理としては文字を一語一語電気信号に変換して送信し、受信側が文字に再変換するという簡単なものであるが、Eメールの遠いご先祖である。電信技術を用いた電報は、現在は情報伝達手段として使われることは殆どなくなったが、祝電や弔電など一種の儀式慣行として残っている。

 

ところが、電信技術を日本に適用するにあたっては一つ厄介な問題があった。アルファベットを用いるヨーロッパと違い、日本語は既に述べた通り基本的に漢字抜きで文章を成り立たせることは難しい。しかし、数千数万ある漢字それぞれを電気信号に変換することなど、当時日本で使われていたブレゲ指字電信機では不可能であった。

 

ブレゲ指字電信機: http://www.ntt-east.co.jp/business/magazine/network_history/05/

 

例えば、「大学に無事合格した」という内容を送るにあたっては「ダイガクニ ブジ ゴウカク シタ」という形でしか送信することができなかったのだ。

 

西南戦争勃発前夜、故郷の鹿児島に下野し後進の育成にあたっていた西郷隆盛を政府は危険視し、西郷の動向を監視するべく密偵を鹿児島に送り込んでいた。しかし密偵は西郷の元の過激派学生らに捉えられ、厳しい尋問に末、政府の勅命を記したある電信文書の存在がクローズアップされた。

そこには、サイゴウ(西郷) シサツ(視察)の文字が。学生たちはいきり立った。

 

「西郷先生を刺殺せよだと!?」

 

西南戦争が始まった。

 

数万もの士族たちで構成された西郷軍は、高度に統制された農民あがりの徴兵者からなる新政府軍に結果的に破れ、中世から近世にかけて700年続いた侍の時代は、ここに本当の意味で終焉を迎え、この日本最後の内戦は後に映画「ラストサムライ」の元ネタになった。

戦前を代表する大ジャーナリストにして在野の歴史家でもあった徳富蘇峰(1863~1957は、安土桃山時代以降の日本近世史を綴った全百巻の大著「近世日本国民史」を、西南戦争で締めくくっている。

 

西南戦争の後にも小規模のテロや暗殺は絶えなかったが、それでもこんにちに至るまで国を割る規模の内戦が起こっていないことを考えると、西南戦争こそが近代日本が統一国家として完成する上での最後の試練であったとも言えなくもない。

しかし、その陰に真偽の程は不明だが同音異義語の誤解、という日本語の構造的問題を巡るエピソードが付されているという事実は無視できない。それはその後の日本の歩みと日本語の関係を考える上で示唆的ですらあった。

 

(続きます)

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