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日本語表記の過去・現在・未来についての考察~その7~ (H16年北卒 谷前 憩介)

日本語表記の過去・現在・未来 その7

 

日本語の“国語”化への道 ~国語辞典「言海」出版~(1)


平成16年北寮卒 谷前 憩介

 

 

明治初期の日本がいかなる形で西洋思想を受容し、その熱烈な信奉者となっていったかについての一断面は、前々回・前回に触れたとおりである。西洋にならうという事は単なる一過性の流行ではなく、そうしなければ日本は後進国として没落してしまうという危機感、そして西洋文明こそが全世界の文明国が目指すべき唯一普遍の“進化”目標であるはずだという確信が明治初期の知識人たちに共有されたのである。

 

では彼らが信奉した欧米列強諸国は自らの言語をどのように扱っていたかというと、イギリスなら英語を、フランスならフランス語を、ドイツ語、オランダ語、ロシア語…というふうに、各国はそれぞれの国で用いられる言語を、それぞれの国語としてまとめあげる作業を惜しまなかった。(ちなみに国語という言葉も明治期に誕生した和製漢語である。)

たとえばとある国家において、A地方とB地方が別の言語をそれぞれ用いていた場合、同じ国家であるにもかかわらずA地方出身者とB地方出身者は意思の疎通が困難となり、これでは国家の運営に多大な支障が生じてしまう。そそのため、近代的な統一国家は国語を整理し、学校教育による普及を通じてその国の住民たちに同じ言語や文化、伝統を共有する国民としてのアイデンティティを確立させようと務める。(その結果、日本においてはアイヌや琉球のように独自性の高い地方の文化や言葉は失われていく傾向に陥るのだが。)

 

辞典は、それら国語政策における大変重要なツールであったため、各国は官民問わずその国の国語をまとめあげた辞典の作成にいそしんだ。たとえば、アメリカで19世紀に出版された英語辞典「ウェブスター辞典」は、アメリカがイギリスより独立を勝ち取ったという歴史的経緯を踏まえ、イギリス英語ではなくアメリカ英語にもとづいていた、といった具合であった。

 

 

 

言葉の海のたゞなかに… 大槻文彦の苦闘

 

欧米列強を模範とした日本も、日本語を国語として整理体系化するにあたり、近代的な国語辞典の編纂は必須であった。その困難な作業をほぼ独力で成し遂げたのは、前回紹介した歴史書「萬国史略」の翻訳作業にあたった洋学者の大槻文彦(1847~1928であった。彼が半生を捧げて大成した日本最初の近代的国語辞典は、言(げん)海(かい)という。

 

WEB言海: http://www.babelbible.net/genkai/genkai.cgi

 

洋学者を祖父、儒学者を父に持っていた大槻は文部省に勤務していた明治7年、上司の西村茂樹より国語辞典の編纂を命じられるが、まさかこれが自身の後半生を賭すほどの一大事業になるとは夢に思わなかったに違いない。

当保、彼は日本語辞典をつくるにあたっては、アメリカのウェブスター辞典をそのまま日本語に翻訳すればよいと簡単にとらえていた。現代の我々からすれば、英語辞典をもとに日本語辞典をつくるという発想に突拍子もない印象を受けるが、以前も紹介したように当時の日本は翻訳教科書時代、読み書きの教科書すらアメリカのリーディングテクストを翻訳して使っていたような時代でもあった。

 

ところが、作業を進めるにつれ次第に事はそう単純ではないことが明らかとなる。英語を日本語に翻訳しただけでは、英語には存在しない日本語独特の表現や単語は当然もれてしまうし、同じ言葉でも国が違えばその意味するところは違ってくるものも多い。

(たとえば、brotherは“兄弟”を意味するが、年長の“兄”、年少の“弟”を意味する単語は英語にはない。)

 

更に日本語の中には意味のよくわからないもの、時代によって意味の変わってくるもの、由来が不明なものも多かった。語源にしても日本語本来の大和言葉もあれば、中国朝鮮由来の言葉やインド由来の言葉、ポルトガルやオランダ由来の言葉もある。更に福沢諭吉ら明六社のメンバーによって社会とか国民とか科学とか新しい言葉が次々と作られる真最中でもあった。(ちなみに大槻文彦も明六社の会員であった。)

とにかく前例のない作業であったため参考文献を探すところから始めねばならず(当然それら参考文献も現在のように整理されているわけではなかった!)、祖父や父の蔵書をはじめ各地に参考文献を求めて駆けまわる毎日が続いた。参考文献の中には、本稿その2に登場した漢字批判者の賀茂真淵や新井白石のものも含まれていたようである。

 

単語の意味を調べる一方で厄介だったもう一つの作業は品詞分類であった。現在では、単語はそれぞれ名詞・動詞・形容詞・副詞・前置詞…というように細かな分類がなされて辞書にもその言葉がいかなる品詞に属するかも記載されているが、西洋の言語学からやってきた品詞分類という発想はそれまでの日本語にはなかったため、単語の意味の特定と同時に、近代言語学的観点からの日本語文法の研究作業も同時にすすめねばならなくなった。結果、言海は国語辞典であると同時に文法書の性質も備えるに至り、冒頭に日本語文法を解説した語法指南の項が設けられるに及んだのである。作業量は更に膨れ上がった。

 

…こうして作業開始から7年目の明治15年に初稿があがり、更に4年の校正機関を経て明治19年に言海の原稿はようやく一応の完成をみた。

 

言葉の海のたゞなかに櫂(かい)緒(お)絶えて、いづこをはかとさだめかね、たゞ、その遠く廣(ひろ)く深きにあきれて、おのがまなびの淺(あさ)きを耻(は)ぢ責むるのみなりき。

 

言葉の海のただなかにあって船を進ませる櫂を失い、場所も定まらぬ中、ただその言葉の海の遠大さと深さに呆れ、おのれの学の至らなさを恥じるのみ…。10年以上の月日をかけて大槻文彦は日本語という苦海を漂った。

それでも、労苦の日々はまだ終わらなかった。今度は、印刷という技術上の問題が待っていたのである。

 

植字校正のわづらはしきこと、熟練のうへにてもはかどらず

 

原稿が完成すればいよいよあとは出版である。しかし文部省内部の種々の人事異動などの事情もあり、原稿は日の目を見ぬまま死蔵状態となってしまった。

更に2年後の明治21年、ついに自費出版という形で出版するはこびとなり原稿を下賜された大槻であったが、苦難はまだ終わらない。

 

印刷は当時日本では最新の印刷技術であった西洋伝来の活版印刷が用いられることとなったが、当初の原稿のままでは活版に適さない部分も多く出ていたため、一度校正の終わった原稿を更に校正する作業にとりかからねばならない。結局校正は6回に及んだ。

 

日本にはじめて活版印刷が紹介されたのは安土桃山時代のキリスト教宣教師によるものとされており、江戸時代には徳川幕府が朝鮮渡来の活版印刷を用いて書物の編纂を行ったこともあった。しかし民間の出版は長らく一枚の版木に文字や絵を彫り込む木版画印刷が用いられ続けており、文字一字一字を活字に分解し、ページごとにそれら活字を組み替えるという活版印刷の発想が本格的に民間に紹介されるのは幕末を待たねばならなかった。

が、アルファベットと各種数字や記号のみを用いればよい欧米と違い、日本語はひらがな・カタカナ、そして数万に及ぶ漢字があるため、いくら活版印刷が効率的とはいえその作業量は欧米のそれと比べて膨大なものになってしまう。辞典ともなればなおさらだ。

 

 

まず、ひらがなやカタカナなどかな文字の活字の規格が統一されていなかったため、文字の寸法がいちいち違うなどの問題が生じた。更に辞書のため、あまり一般的でなく活字の用意されていない漢字も頻出し、それらの活字は新たに鋳造せねばならなかった。

 

私事においても不幸は続発した。校正の協力者が脳溢血で倒れ、更には愛する妻と娘も病で失うなど苦難と不幸を大槻文彦は味わい尽くした。刊行計画は遅れに遅れ、予約者達は大槻文彦の名前をもじって大うそつき先生とさげすんだ。そのあたりの困難、苦闘、胸がつかえるような悲しみを、大槻文彦はことばのうみのおくがきに詳述している。

 

ことばのうみのおくがき

http://www.aozora.gr.jp/cards/000457/files/43528_17152.html

 

こうして明治24年、計画の発足より16年の月日を要したのち、ようやく言海は出版にこぎつけ、完成祝賀会には時の内閣総理大臣伊藤博文をはじめ各界のそうそうたるメンバーが集ったという。

 

(続きます)

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