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日本語表記の過去・現在・未来についての考察~その8~ (H16年北卒 谷前 憩介)

日本語表記の過去・現在・未来 その8

 

日本語の“国語”化への道 ~国語辞典「言海」出版~(2

 

平成16年北寮卒 谷前 憩介

 

 

本邦初の近代的国語辞典「言海」の誕生に至る経緯は前回に見てきた通りであるが、では言海がどのような意義・性格を持っていたか、という部分について概略を述べたいと思う。言海が成立した明治の20年代は、明治生まれの新世代がいよいよ若者として社会に進出を始めた頃と一致し、また日本が近代以降初の対外戦争である日清戦争などを通じて、国家というものの体を手探りながらも成しつつあった時代でもあった。

 

 

■“日本普通語”と国民の創成

 

 大槻文彦らの凄まじい苦労の末に刊行された言海は、その苦労に見合うように世評もすこぶる高く版を重ね、文筆家周辺のみならず一般家庭にも広く普及をしていった。これは、言海が一部専門家のための特殊な用語事例のみを収録した専門書ではなく、広く地域を問わず日本国民全体を読者としうるほどの普遍性・網羅性を有していたからであろう。それこそが江戸時代にもあった各種字引類との違いであった。

 

言海は地名や人名などの固有名詞ではなく、一般的な日本人が用いるであろう言葉(それを大槻文彦は日本普通語と呼んだ)が主となっておよそ四万語が収められた。現在の代表的国語辞典である広辞苑第六版の二十四万語と比べると少ない印象を受けるが、当時としては比類のない規模を誇った。

 

言海が必然的に読者としてその射程に捉えたのは、前述のとおり日本国民全体である。

 

江戸の時代、お国といえば庶民にとってはそれぞれの生まれ住まう地域を意味していた所、明治維新以降、廃藩置県や徴兵制、何より学校公教育の普及により、次第次第に一般庶民にも「我等は日本国の国民である」という意識が広がりを見せ始めたいた頃である。

日本国民が出身地域によらず同一の日本国民であれば、言葉もまた地域によらず同一性を確保されねばならない…。言海の示した「網羅的な日本普通語」の姿は、そういう理念の具現化でもあったのだろう。大槻文彦は述べる。

 

一国の国語は、外に対しては、一民族たることを証し、内にしては、同胞一体なる公儀感覚を固結せしむるものにて、即ち、国語の統一は、独立たる基礎にして、独立たる標識なり。されば、国語の消長は、国の盛衰に関し、国語の純、駁、正、訛は、名教(道徳)に関し、元気に関し、国光に関す。

 

日本普通語、言い換えれば国語の統一こそが独立の証。民族統一の証。元来言語学の門外漢であった大槻がかくも精魂込めて国語辞典の編纂にあたったのは、男子の一生を賭すにふさわしい国事であるという認識があったからであろう。

 

五十音の採用 西洋志向と廃仏毀釈の影

 

言海に関して更に特筆すべきは、索引がいろはにほへとではなく五十音を採用したことだった。

 

江戸時代、寺小屋などで子供たちは読み書きを学習する歳、最初に教えられるのは、あいうえお…ではなく、いろはにほへと…のいろは歌であった。

 

いろはにほへと              色は匂へど
ちりぬるを                     散りぬるを
わかよたれそ                 我が世誰ぞ
つねならむ                     常ならむ
うゐのおくやま             有為の奥山
けふこえて                     今日越えて
あさきゆめみし             浅き夢見じ
ゑひもせす                     酔ひもせず

 

いろは歌は日本語を構成する47の基本的な発音を1文字ずつ重複すること無く使用され、しかもそれが一つの意味ある文章をなしている。日本人に馴染みの深い七五調のリズムも相まって唱和にも向いている。成立は平安時代中期頃と言われており、「我が世誰ぞ常ならむ」という言葉に象徴されるように、「この世に永遠のものなど無く、全ては変転していく」という仏教的な諸行無常の考えを説いている。

 

幕末に来日したスイス人のエメェ・アンベールは、この“日本のアルファベット”が寺小屋などで唱和されている光景に興味を覚え、内容を以下のように解釈し、驚きを持って紹介した。

 

「色も香いも、消えていく。われわれの世界において、何か永久的なものなどあり得るだろうか?今日の日は、虚無の深淵の中に消滅していき、そのはかなさは、夢のようである。それは、微細な不安すら残さなかった。」

 

アンベールは、このいろは歌がいかなる書物よりも雄弁に日本人の基礎的性格を表現していると評し、この諸行無常の価値観は、例えば日本の家屋は障子や家具の効果的な使用により、一つの部屋が応接間にも食堂にも寝室にも容易に変化する部分などにも表れているとした。いろは歌は生活・教育の両面において長い年月を経て日本人の血肉となっていたのである。

 

一方、現在の小学校の国語の授業は、まずは「あいうえお…」と五十音の暗唱から始まるのが普通であり、いろは歌は古典の授業で取り上げられることはあっても日常からほぼ姿を消したと言ってよい。教育の世界でその変化が決定的となったのは、言海の発行と近い明治20年代前後の事であったという。

五十音はまずは母音のあいうえおから始まり、いろは歌とくらべても非常に規則的、システマティックな印象を受ける。一方でいろは歌と違い、意味のある文章にはなっていない。

 

五十音もいろは歌と同じく、その原型は平安時代の頃に仏教における仏典の発音研究の過程で派生的に誕生したものらしいが、それを発音表として確定させたのは、以前も紹介した本居宣長ら江戸時代の国学者達だったようだ。

本居宣長は「漢字三音考」の中で、「皇国の古言は五十の音を出ず。これ天地の純粋の音のみ用ひて。混雑不正の音をまじへざるがゆえ也」と、五十音こそ古代の純粋な日本語の発音であるとの見解を、やや極端なな形で述べている。

彼は中国やインド由来など外来の文化や思想を漢(から)意(ごころ)としてしりぞけ、日本の純粋性のようなものにこだわりを見せたことは前にも述べたが、五十音の研究にはその辺りの事情も絡んでいたのだろう。いろは歌はあまりにも仏教的(≒からごころ)すぎる。(五十音も仏教との関わりの中で生まれたものだったのだが…)

 

明治維新を成し遂げた思想的な原動力は、西洋に習おうとする洋学の系譜と本居宣長以降に盛んになった国学の系譜が混ざり合っているが、その両者にとって都合の良いのはいろは歌よりも五十音であった。西洋を範とする洋学者の側からすれば、発音が母音と子音に分けられて規則正しく配列された五十音は合理的であり、日本のアルファベットとするにふさわしく思われる。そして国学者の側からすれば、五十音は天地開闢以来の古代日本の純粋な日本の発音と考えられたからだ。

 

 

更に教育の場からいろは歌が姿を消した理由の一つとして考えられているのが、当時の日本で行われていた文化破壊の蛮行、廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)の影響である。

日本では「神様仏様」というように長い年月をかけて神道と仏教が交じり合っていた所、神道の長である皇室をたてまつって発足した明治新政府は、神道と仏教の分離を試みた。結果、仏教を軽んずる風潮が生まれ、日本各地で民衆によりお寺や仏像が破壊されるという事態も明治の初期には頻発している。現存していれば重文国宝クラスになったかもしれない仏教遺産が多数破壊されたのだから、もったいなくまた罰当たりな話だが、以前も述べた通り、当時の知識人有力者の中にも旧来の伝統や遺産には何ら価値を見出さない風潮が強く、貴重な遺産の破壊や散逸を嘆いたのはむしろ西洋人達であったという。

実際の話、殖産興業・富国強兵を旨とする明治日本の基本方針に、諸行無常とか盛者必衰とかといった仏教的な価値観はそぐわぬ面があったのも事実で、さまざまな理由の中でいろは歌は次第に五十音に取って代わられていったものと考えられる。

 

こうして日本初の近代的国語辞典である言海には五十音が採用されたが、意外な人物がそれを批判した。大槻文彦と同じく明六社の主要なメンバーであった福沢諭吉である。

開明的な福沢諭吉が五十音よりいろは歌を支持したのは意外な話だが、福沢諭吉は何より実用性を重んじた。いろは歌は庶民の世界にまだまだ深く根付いていたため、五十音よりいろはの方が読者にとっては実用的であると考えたのだ。変にイデオロギーが絡んでいないあたりがさすがである。

 

まさに諸行無常を地で行くように公の場から姿を消していったいろは歌だが、大正年間の頃まで電話帳はいろは順で並んでいたというから、如何に民衆に染み込んでいたかという事が良くわかる。

 

近世と近代を結ぶ言海

 

文法、意味の特定、普通語、五十音…。ここまでの紹介だと、言海という辞典はどこかシステム的すぎて人間味に欠ける、あるいは近代日本の帝国主義的な欲望をぎらつかせているという印象を持たれるかもしれない。言海が持つその網羅性・システム性がかえって日本語表現の可能性を狭めたという批判もある。

 

一方で、言海は単なる辞典の枠を超えて多くの愛好者も生んだ。後年の作家であえる夏目漱石や芥川龍之介の作品内にも言海は登場し、戦後の作家の開高健も愛読していたという。現在も読書人の間では人気は高く、文庫にもなった他、古書店でも買い求められることも多いらしい。

 

言海の編纂の過程で、大槻文彦は東西古今の様々な文献にあたり、その中には江戸時代に編纂された雅語辞典や博物図鑑などの近世辞書も多く含まれており、用語の解説にそれら江戸時代の文献からの引用が多いことが近年指摘されている。近代的な体裁を持つ一方で、文章そのものは古典の味わいを併せ持っているのだ。そのあたりのギャップが独特な魅力となり、また明治前半期の日本語空間をあらわす一級のサンプルにもなりえているという評もある。

 

例えば、よく引用されるのが“猫”に関する記述。

 

人家ニ畜フ小キ獣、人ノ知ル所ナリ、温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠ヲ捕フレバ畜フ、然レドモ、竊盗ノ性アリ、形、虎ニ似テ、二尺ニ足ラズ、性、睡リヲ好ミ、寒ヲ畏ル、毛色、白、黒、黄、駁等種種ナリ、其睛、朝ハ円ク、次第ニ縮ミテ、正午ハ針ノ如ク、午後復夕次第ニヒロガリテ、晩ハ再ビ玉ノ如シ、陰処ニテハ常ニ円シ。

 

文語で書かれているため現代の我々には読みにくい部分もあるが、「ねずみを捕ってくれるが盗み癖がある」とか「眠ることを好んで寒さを嫌う」とか「朝は体を丸めており、真昼頃には針のように体が張り、……、夜は再び玉のように丸まる」とか、情景が目に浮かんでくるようで何ともユーモラスだ。学術的でも体系的でも全くない。こういう味わいは近年の辞書にはあまり期待できない部分だろう。この記述にも大槻文彦のユーモアと共に、江戸期の博物図鑑の影響をみる研究もある。

芥川龍之介はこの記述を面白がり、随筆「澄江堂雑記」において、

「これをしも「竊盜ノ性アリ」と云ふならば、犬は風俗壊乱の性あり、燕は家宅侵入の性あり、蛇は脅迫の性あり、蝶は浮浪の性あり、鮫は殺人の性ありと云つても差支へない道理であらう。按ずるに「言海」の著者大槻文彦先生は少くとも鳥獣魚貝に対する誹謗の性を具へた老学者である。」

と、愛着込めて皮肉った。

 

言海そのものは日本の近代化の要請にこたえる形で成立したものだが、言海の中において近代以前と近代は決して断絶はしてはいなかった。その意味や意義については、今後も我々は考えていくべきであろう。

 

かな文字運動の方へ

 

洋学者の祖父、儒学者の父を持ち、和漢洋に渡る膨大な資料を駆使して言海を成立させた大槻文彦であったが、彼本人は明六社の他メンバーと同じく漢字廃止論に傾いており、明治十四年に発足したかな文字運動団体「かなのくわい」(假名の會)に参加している。

 

かなのくわいは皇族の有栖川宮 熾仁親王を会長にいただき、一時期は会員数も一万を超えるなどかなりの規模を誇ったようだが、かな文字の表記を伝統的な歴史的かなづかいとするか、現在我々が使っているものに近い表音的かなづかいにするかで意見が対立するなどまとまりには欠け、言海の初版発行位の前年の明治二十三年(1900年)頃にはほぼ活動停止状態となってしまった。かな文字運動のより本格的な再興は、後年のカナモジカイの発足を待たねばならない。

 

(続きます)

 

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