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200ドルで始まった50年の冒険はまだ終わっていない。

(S35南 佐藤繁美、米国在住)

1960年(昭和35年)の夏、和敬塾南寮の3階で10人ばかりの塾友に囲まれて私が米国に留学する送別会があった。塾友が工面して集めたお金そのほかから集めたものが米ドル200ドル相当もあった、その当時の200ドルは1ドル360円の時代だったので大変なことだった。塾友の思いやりは忘れることができない。旅立ちの日数人の塾友が横浜の氷川丸の中まで同伴してくれたことも忘れることができない。

私にとっては、米国留学は新しい将来への第一歩のようだったが、内心心細かった。その氷川丸にはフルブライト交換学生や米国に帰国する人たちなど色んな人がいた。私たち、学生は船の底の三等客室で一部屋に8人が同居して二週間の航海をすることになった。船が北太平洋航路を通るので、8月末とはいえ寒い日が1週間も続いた。やっとシアトル港に着いて、入国の手続きを終え、昔お世話になった宣教師と立教大学で知り合いになった米兵の所に数日泊まった。渡米二日目にシアトルのレニア山に登山したが、23歳の私にはこれが無謀な冒険の初めだとは実感しなかった。

一番心細くなったのは、デトロイトでミシガン州のウエイン州立大学の大学院で物理化学を勉強した時だ、宿題は毎日50ページくらい読んで、毎週あるミニテストに準備することだったが、英語の読み書きの速度は同級生の米国人とは比較にもならなかった。教授のドイツ語訛りの英語は理解するなんてものではなかった。それで、私の英語を話す能力たるや、皆無に近いものだった。それで、読み書き、会話が出来なかったことは、私の成績に大きく影響した。

専門の生化学ですら、平均以下の成績だったし、有機化学も第一学期はお話もできないものだった。研究室のチェン教授には、あと6ヶ月で成績が改良しなければ、退学するより仕方がないと言われた。その時のショックはすごかった。目の前が暗くなった。ポケットの200ドルもあとあまり残っていないので、帰るわけにもいかないし。どうしようか、と思った。

小学校時代の修身の教科書にあった話しを思い出した。 豊田佐吉が大正時代に米国に豊田自動織機を設置に来たとき、短刀を腰につけていたので米国人が日本人は武器をいつも持っているのかと質問したとか。実は、もし豊田自動織機が失敗したら自殺するつもりだったとか聞いている。(トヨタ車のリコールとはかなり対比的な話だ)豊田佐吉の話が脳裏について、眠れない夜が続いた。本当に留学が成功しなければ、自殺するよりしかたないなと思っていた。

ノイローゼ気味になった。そんな時、立教大学の産業心理学の鶴見教授が交換教授でウエインに来ておられた。鶴見教授は私と会うや否や、ノイローゼには飲みに行くのが第一だとアドバイスしてくださった。それで私は大学近くのバーによく行くようになった。その頃のデトロイトのバーにはバレスクとかボードビリアンをいって一人でジョークを演じるのが多かった。ストリップショウもあった。ジョークの「落ち」らしきところで皆が大笑いしていたが、何故みんなが笑っているのかを理解したかった。

大学時代に落語が好きで新宿の寄席によく通ったものだ。何ヶ月か、バー通いをしているうちにすこしづつジョークがわかるようになった。渡米して6ヶ月後くらいのある朝、起きたときにラジオ放送の内容が全部わかることに気がついた。変だなと思ったが、外で隣の人と話したら、なんと話の内容が完全に理解できるではないか。自分の話していることも通じていた。英語が始めて自分の頭についたことの嬉しさは今でも忘れられない。バーを駆け回って、街頭英語の、悪い表現を沢山身につけたが、大学での成績も上がりだした。

まともに、米国人と競争していたのでは絶対に追いつけないと思って、方法を変えたのだ。授業で習った方程式や化学構造をかたっぱしから絵として記憶して、生化学の代謝のマップも全部記憶した。(幸いにも、その頃の代謝マップはドアの両側に入る大きさだった。いまでも、殆どの代謝経路はいまでも私の語彙のなかに入っていて、大学で講義するときも、使っている。)図式で思考を整理する習慣をつけたことから、自分が試験の解答をするにも、方程式、化学構造を一杯取り入れたので米国人の学生と同等に競争することが可能になった。

読むほうは、一行ずつよむのではなくて、ページを一分くらい漠然と眺めて内容を把握する、それをカードに図式でまとめて記入すると50ページの複雑な内容が50枚の小さいカードに収まる。そのカードを記憶すれば、試験も満点まちがいなしだった。この勉強法で成績があがり、卒業するころには優秀な成績をとれたし、街頭英語の習得で会話も急速に上達した。このような、勉強法は私にしか通用しないのかもしれないが、若い人たちにぜひお勧めする。

このようにして習得した英語が実用になるかどうかは、米国人と論争(喧嘩)してみるとその威力が発揮できる。日本から来ている学生、ポストドクやビジネスマンたちはとてもはにかみやで、自分の言っていることが通じるかを心配しすぎるから、何も話しが進まない。
私の話していることを理解できないほうが悪いのだと思って堂々と話すべきです。(インド人、中国人、韓国人の学生は皆、それぞれのアクセントの強い英語で早口で挑戦するのが、気持ちがいい。江戸っ子のベランメー英語でやるのもよし。上品な英語は年をとってから、必要に応じて身に着けるといいでしょう。)

日本人の英語能力の増加をしなくてはならないことは日経新聞、2010年 2月22日号に新潟県立大学の猪口孝学長が、日本人が実用になる英語を身に付けるように英語教育の改革を5年以内に始めなければ日本は国際社会についていけなくなると警告していた。私は猪口学長の意見に賛成します。皆さんにこの記事を読まれることを薦めます。
私の英会話が急速に上達したことの理由にはもうひとつある。大学院で論文研究などしている、周りの学生は皆既婚者かデートの範囲外のものばかりだった。そんな連中の中に、隣のラボに女性がいた。彼女と同じクラスをよくとるようになった。試験の勉強などのグループにもよく誘い合って出席していた。そのうちデートもするようになった。

デート用の英語なんて映画でしか聞かなかったが、とても「気障」で実用にはならなかった。あれはハリウッドだけに通用するものかもしれない。だから、自分なりに意思を通じなくてはならなかったので苦労したが、それで英会話が急激に上達した。結局、大学院は卒論研究などで波瀾の多い4年であったが、1964年に彼女と結婚した。結婚する前に彼女が先に博士号をとって卒業したので、男として、遅れをとるわけには行かなかった。そんな競争が大きな収益をもたらした。この方法は若い学生さんにとくにお勧めする。ちなみに、結婚してもう47年になる。

つぎに、あまり変哲のない私の生活について書いてみる。大学院生活も無事に終えて、博士号をとり、学生ビザの期限がきれた。家内を連れて日本に帰り2年間、名古屋市の愛知がんセンター研究所でポストドクをした。家内にとっては日本を理解するいい機会となった。その後、ボストンのタフツ大学で生化学を教えながら、ペプチッドの合成を学んだ。4年後の1972年はベトナム戦争の余波を受けて、ニクソンショックという経済恐慌、職探しは大変だった。

60通以上の手紙を色んな大学や会社に出したが、職は見つからなかった。現在の米国と良く似た状態だった。そんな中のある日、ミシガン州のカラマズー市にあるアップジョンという大手の製薬会社の研究所から面接に招かれ、4月にアップジョン社に就職し、免疫学の薬学の研究生活に入った。もともと、ミシガン州で教育を受けたので、カラマズー市のようなこじんまりした街は子供を育てるにも、その街の大学で教えるにも最適な環境であった。

色んな分野の研究をしながら、その会社に26年勤め、会社がファイザー社に買収される直前、1998年に引退した。その後、以前から関係のあった、ランシング市のバイオテク会社 ネオジェン社に研究開発の副社長として就任した。会社につとめながら、当市のミシガン州立大学の国立食品安全研究所と工学部、化学工学の非常勤教授として教え始めた。その会社で副社長として12年働いた。2010年12月31日に同社を引退したのだが、これからの余生をどうして過ごすかを考えているところだ。大学のほうはまだ非常勤教授としてバイオセンサーの設計などの講義や指導を続けている。

引退すると自分の生活が極端に変わる。今まで、ファースト・ネームで付き合っていたビジネス関係の友人からは何の音沙汰もない。時々電話が掛かってくるが、内容は私が実質的に技術関連無料相談所になっているようなものだ。引退する前日とその翌日で私の社会での価値がゼロになるものだろうか。米国の社会の価値観がいかに地位と結びついているかがわかる。引退した翌日から、私がすることは皆ボランティアの仕事で無償ですることを期待されているようだ。

米国にも、人口の老年化が目立ってきて、第二次世界大戦後のベービーブームの人たちが年金をもらう現場から引退し年齢になってきた。それに、現在の経済恐慌が重なって、無償か最低賃金で働く老人が増えている。米国の社会には今までの経験を生かす概念がないのかもしれないが、過去の技術的な経験は博物館に保管するくらいだ。 ソフトで成功しているグーグル社の社員の平均年齢は男性が29.7歳、女性が28.4歳で、会長ですら48歳である。そんな会社には老人の知恵の必要性はもうなくなっている。

それより、米国の経済を支配する若い人たちの多くがMBA(経営学修士)の学位を持っているが、この人たちのテクノロジーに対する理解度は高いとは言えない。テクノロジーを利用して利益に変換することには卓越している。私にはそれが不思議でしかたがない。科学技術を身につけていない人たちがマネジメントになって詳細を決めることは、水泳できない人が水泳を教えるのと同じで、私のマネジメントの思想に反している。

それで、引退した予後の生活では、テクノロジー管理でMBAを獲得することを目標にして、経営学の実際を経験できる計画をつくった。40数年を企業の研究所で業務の実施でテクノロジーをマネジしてきたのだが、それが、経営とどう結びついているかを勉強し、MBA中心の米国経済の中身を少しでも理解できればいい、と思う。74歳で大学院に籍をおいて勉強することになるので、隠居生活とははるかに遠い。卒業するのは77歳と言う事になるが、その時点で次は何をするか考えよう。

渡米したときも、無謀だった。所詮水の中に飛び込まなくては泳ぐことはできないのだから、そのつもりで米国に来たのだが、私は馬鹿だなと思った。その無謀さが今でも治らないので困ったものだ。昔から、ドイツ人は走る前に分析して結果を計算して走り出し、日本人は皆が走った後でその結果を検討して走る計画をし、米国人は走り出してからどこへ行こうかと考えるといわれるが、私の場合はどうなのだろう。まだ、この無謀な冒険は続きそうだ。

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