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マレーシアとの出会い

私は1967年、某自動車企業の海外取引担当スタッフとして業務出張したときから、マレーシアとかかわるようになった。

海外の植民地で生まれ、終戦直後内地へ帰ってきたいわゆる引揚者である私は、大人になったら海外へ行きたいと子供のころから考えていた。海外に行けるなら業種や職種にはこだわらないという姿勢で就職活動した結果、1961年、海外部門がある同企業に入社することが出来た。

入社7年目にして初めて、タイ・マレーシア・シンガポール・カンボジア・香港を巡回する海外出張命令を受けた。その後も何回かマレーシアに出張したが、マレーシアは嫌いな国のひとつだった。嫌いな理由は、入国時にライターやボールペンなどを税官吏に渡さないと手荷物通関を円滑にパスできなかったことだ。そのうちに、ルック・イースト政策を掲げたマハティール元首相が国を治めるようになってから、マレーシアはすこしづつ良い方向に変化しているのを実感できるようになった。

日本経済のバブルがはじけかけたころ、前記自動車企業の取引先企業がマレーシアに自動車関連部品工場を建設することになったが、そのプロジェクトを遂行するスタッフが育成されていなかった。1990年、私はその取引先に休職派遣され、現地企業との合弁会社を設立する業務に携わることとなった。合弁契約の原案を作成し、契約に関する折衝のため、何度かマレーシアを訪れた。ルック・イースト政策の効果で、いい方向へ大きく変化したマレーシアは私の好きな国のひとつになっていた。

合弁企業の副社長としてマレーシアに常駐することになり、合弁パートナーの事務所の一角に机を与えられたが、赴任予定の1991年に湾岸戦争が始まり、多くの日本企業が海外渡航を自粛した。私の籍がある自動車企業においても、なるべく海外渡航は控えるようにというお達しが社内各部門に発せられた。合弁パートナーからは「マレーシアは安全だから、一日も早く来てほしい」と毎日のように催促されながら、一方で休職派遣先のボスからは「このような時期なので、私から行ってくれと言えないが、出発するかしないかの判断はあなたに任せる」と言われ、「出発すべきか、待つべきか」結論を出せないまま1ヶ月ほど苦悩の日々をすごした。

タクシー・ドライバー、青年経営者、ドリアン

状況が少し落ち着いた1991年2月にクアラルンプール入りし、住居が決まるまでの間、ホテル住まいとなった。翌日、出勤するためにホテルで客待ちしていたタクシーに乗った。事務所までの間に、ドライバーと意気投合し「毎朝7時にホテルへ迎えに来る」ということになった。私がコンドミニアムへ入居してからも、自分の車を入手するまで、彼は毎朝7時に私を迎えに来て事務所へ送ってくれた。
彼には現在でも、必要なときはハンドルを握ってもらっている。たとえば、マレーシアを初めて訪れる知人たちとマラッカへ観光したり、クアラ・セランゴールへ蛍見物に行ったりするときに、一声掛けると、他の仕事との時間調整をしたうえで、私の要望に応えてくれるといった具合だ。もちろん、料金はぼったぐりなし。

あるとき、年齢は若いが父親から経営を任されている、マレーシアの某自動車企業のボスからゴルフに誘われた。スタート時間が18:30だという。私にとっては初めてのナイト・ゴルフだった。パートナーやボスの友人も含め、3組のメンバーが集まった。
21:30頃、ゴルフが終わってシャワーを浴びていると、ボスが「この後カラオケに行こう」と誘ってきた。「もうカラオケ店は閉店時間ではないのか」と暗に断ったところ、「マレーシアのカラオケは22:00から始まるのだ。それに、今日は君のパートナー夫人の誕生日で、皆でバースデーのお祝いをすることになっている」と言われたので、彼らに同行した。店では客に一人づつ女性がついたが、そのような場所で奥さんの誕生パーティーをするというアイデアに驚いた。02:00過ぎまで飲んで、歌って、食べた。それでも、翌日は遅刻しないで出勤している彼らのバイタリティーにもショックを受けた。

この若いボスに「今夜、俺のうちでドリアン・パーティーをするので、付き合え」と誘われたことがある。毎年、ボスはマレーシア各地のドリアンを自宅に取り寄せ、品評会をすると言うのだ。当時私はドリアンを食べることが出来なかった。その原因となったのは、1967年の海外出張だ。最初の訪問地バンコックで某商社の駐在員がドリアンをホテルに届けてくれた。果物の王様という呼び名からとても美味しいものだと想像していたのだが、ホテルのコーヒー・ショップで開いてもらったとたんに感じた異様な匂いのため、まったく口に入れることが出来なかった。それ以来20年間、ドリアンを出されても、食べないことにしていた。

そのようなわけで、ドリアン・パーティーに誘われたときは答えに困ったのだが、断るのは会社の業績に悪影響を与えると思い、ボスの自宅へ同行した。ボスに「このドリアンを食ってみろ」と勧められて、いまさら「ドリアンは食べられません」とも言えず、私はドリアンをつまみ目をつぶって口に入れた。予想に反して、その時のドリアンはチョコレートの味だった。ドリアンはこんなに美味しかったのかと、20年間ドリアンを避けてきたことを後悔した。それ以来、私はドリアンが大好きになった。ドリアンが傍にあるとき感じるのはチョコレートの香りだし、炊き上げたご飯にドリアンを混ぜて食べた(学生時代、ご飯にバターを入れ醤油をかけていたのと同様な感覚)こともあるくらいだ。

郷に入れば・・・、監視社会、ボルボ

このようにして、私の日常生活はつぎのようなタイム・テーブルに沿ったものとなった。

06:30 起床 → 07:15 自宅発 → 08:00 事務所着 → 20:00 夕食 → 01:00~03:00 就寝。「日本人はだめだ」と現地の人たちに言われないよう、「郷に入れば郷に従え」を実践したので、週に一度は3時間の睡眠しかとれないことがあった。

仕事の合間を見ていくつかのコンドミニアムを見て回った。取引先の日本人駐在員の住居を訪ねた。部屋の造りやプール・テニスコート・ジム・レストラン・売店などファシリティーに不足はないが、入居者の90%以上が日本人というのが気になった。偶々、そのとき空き室が無かったのが私にとっては幸いだったようだ。日本人が多いところに住むと、プライバシーが無くなるからだ。他国の人たちのコミュニティーでは、どうか分からないが、日本人社会では、常時お互いに監視しあっているように感じる。

あるとき、工場の設備メーカーの女性販売員と一緒にジャパン・クラブのレストランでランチを食べたことがある。事務所へ戻るなり、取引先の日本人から「さっきジャパン・クラブで一緒にいた女性は誰ですか」という電話がかかってきた。彼の奥さんがその日ジャパン・クラブの食堂で、私が女性と食事しているのを見たという報告があったと言うのだ。情報伝達の早さに驚きながら、日本人社会の嫌な一面を実感した。結局、日本人の居住者が20%のところに住むことにした。

通勤用に使う車として、ボルボの中古車を購入した。走行距離10万キロを超えており燃費は悪いが、頑丈な車だった。2年近く使っている間に大型トラックと3回接触したが、私は一度も怪我したことがない。そのボルボでローカルの人たちとタイのハチャイやシンガポールまで遠出したことがある。長時間アクセルペダルを踏みっぱなしだったせいで、現地に到着して車外へ出たとき、最初の1歩が踏ん張れず、危うく転倒するところだった。ハチャイではシャークス・フィンやツバメの巣を、シンガポールでは海鮮料理を食べることが目的だった。

2年の賃貸契約が切れたので、日本大使館近くのコンドミニアムに移転した。同時に、車もボルボの新モデルにした。新モデルは「オート・クルーザー」が装備されていたので、通勤のときも遠出するときにも右足の疲れを感じることが無かった。新車を購入したことにより、「1万キロごとに点検する」と言うボルボのサービス・ポリシーを知ることができた。日本のように「車検制度」がないマレーシアでは、部品の磨耗や整備不良による事故を起こさないよう、日ごろから点検を怠らないようにして、自分の車には自分で責任を持たなければならない。1万キロごとに点検することにより調整するところや交換すべき部品が判明するので車のオーナーとしても安心だ。私は、通勤に往復70キロ、業務に20キロ、昼食時に往復10キロ、1日合計100キロ運転していた。したがって、毎月点検のためにボルボのサービス工場に持ち込んでいたように思う。

就職活動、第2の祖国、健康食品

このように、一緒に食べたり飲んだり都会を離れて旅行したりしているうちにすっかりマレーシアの虜となってしまい、当初2年くらいで帰国するつもりでいたのに、7年も滞在する結果となった。その間に、マレーシアを終の棲家にしようと考えるようになっていた私は、1996年、上記合弁企業を退職後、マレーシアでの再就職に動いた。この就職活動の中で「理系ならご紹介できるところがあるのですが、文系では心当たりがありません」と言われ、自分が大学で理系のコースを選ばなかったことを大いに後悔した。

しかし、パソコンのバックアップ・システムを製造・販売している小さな企業に営業担当として採用された。頻繁に停電があるマレーシアではフィージビリティーのある企業だが、日系企業に売り込みをかけるスタッフがいなかった。私が入社したら、第1段階として日系企業に売り込み、第2段階は現地企業に売り込むことで販路を拡大するという計画だった。ところが、当時のマレーシアは景気が悪く、進出していた日系企業が続々と店じまいして日本に引き揚げていた。顧客となる企業がひとつづつ消滅していく状況では手の打ちようが無かったようで、私を採用してくれた企業も店じまいすることになり、私も帰国せざるを得なくなった。

1997年の帰国以来、毎年航空運賃が安い時期にマレーシアへ行き、バクテ(豚肉を漢方薬で煮たもの)、スチーム・ボート(マレーシアのしゃぶしゃぶ)、海鮮料理(海老、蟹、貝)、ベガー・チキン(チキンを粘土でくるみ火の中で焼いたもの)、チキン・ウィング(手羽先・腿のロースト)、ロティ・チャナイ(厚めのクレープ?軟らかめのピザ生地?)などの食べ物、ドリアン、マンゴスチン、ドラゴン・フルーツ、マンゴ、パパイヤ、ランブータンなどの果物を食べ、気が向けばゴルフやカラオケに興じることが最大の楽しみとなった。

昨(2009)年は9月30日に成田を出発、クアラ・ルンプール国際空港(KLIA)で迎えてくれた友人とクアラ・ルンプール市内にあるなじみのレストランに行った。このレストランは「スタジアム・ネガラ」という名前が示すとおり、市の中央部にあったフィールド競技やサッカーなどに使用するスタジアムで営業していた。スタジアムの壁の外側にテーブルを並べ、雨が降れば、雨よけのテントを広げられるように細工を施してあり、蚊取り線香を足元に出してくれる店だった。この店のチキン・ウィングは逸品だ。日本ではチキンを食べない私でさえ自ら注文するほど美味しい。また、スチーム・ボートは熱源に炭を使っているので、プロパン・ガスを熱源とする他の店のものよりはいい味が出ている。食後のフルーツとして出されるパキスタン・マンゴも格別だ。数年前、スタジアムが建て替えられることになったため、このレストランも移転せざるを得なくなり、現在は、オーストラリア大使館の近くで営業している。

この店でいつものメニューを食べながら、前年最後に会って以降お互い身辺に起こった事柄を報告しあった。友人は米国製の栄養剤販売を始めたらしく、話によると同栄養剤は米国の細菌学・免疫学界のマイロン・ウェンツ博士が創り出したもので、ビタミン・アンティオクシダント・ミネラルなどを含有しているという。懸命になって、その栄養剤が如何に優れているか説明する友人の販売成績向上に寄与するため、栄養剤5種類を購入した。日本に持ち帰り服用中だ。服用期間が長くないので確かなことは分からないが、約1年、整骨院で受けた電気・マッサージ治療でも消えなかった肩の痛みを最近殆ど感じなくなったのはその効果かも知れない。

この類のものは、以前にもマレーシアのローカル・スタッフ達から勧められたことがある。

ひとつは台湾製の霊芝。血液を浄化するというので私は高血圧対策として2年ほど服用した。日本では入手ルートを見つけられず、帰国後、服用していないこともあり、効果は確認できていない。しかし、結婚後10年間子供に恵まれなかったローカル・スタッフは、私に霊芝を勧めながら自らも服用していたが、その後3度出産している。霊芝が何がしかの効き目があることを実証しているのかも知れない。

2つ目は日本製のオー・エム・エックスだ。名前がローマ字のオーではじまる岡山大学の教授が山奥の果物と海藻類から創り出したもので、人体内の善玉バクテリアと悪玉バクテリアの割合を理想的な8対2(生まれたときの状態)に戻す働きがあるという。
私はこれもまた血圧対策で帰国前1年間、霊芝に加えて服用しはじめたが、帰国までには効果を確認できなかった。日本でも入手可能だが、コストが高いので帰国後は服用していない。
従って効果のほどは確認できていないが、マレーシアのセミナーでは糖尿病やデング熱が治ったということが報告されていた。

職人の誇り

昨年は、マレーシアに来て2ヶ月しか経っていないという銀座の寿司店元経営者の「イタチョウ」と呼ばれている日本人に出会った。「イタチョウ」は銀座の店をご子息に譲り隠居生活を送っていたが、「何もしていないなら、マレーシアで自分の店を手伝ってくれ」とモン・キアラにある日本レストランの経営者に誘われてマレーシアに来たのだという。「イタチョウ」から、マレーシアの食事ができるところを紹介して欲しいと頼まれて、クアラ・ルンプールの中心部ジャラン・インビとジャラン・ブキット・ビンタンの間にあるオープン・エアの海鮮料理屋「レストラン・エイシア」に案内した。

広い敷地にある柱と屋根だけの大きな建物の中で数十軒の屋台がある。そのひとつで、オーナーである30歳代後半の男性が自ら接客・調理している。セオンという名の彼とは1991年からの付き合いだが、私の顔を見ると「海老・蟹・貝?」と知っている数少ない日本語で話しかけてくるのが常だ。昨年も、いつものとおり挨拶代わりの注文確認をしてきた。我々のメンバーはイタチョウとレストランのキャッシャー、それにレストランの常連客をまじえ4名だったので、海老・蟹・貝のほかにチャーハンと野菜も注文した。この店で食べるときは、海老はブラック・チリ・ソース炒め、蟹はレッド・チリ・ソース炒めが、貝はジンジャー入りがお勧めだ。マレーシアでチャーハンを食べるときは、レッド・チリーを1ミリ幅に輪切りにし醤油に浸したものを、一口に一切れづつ混ぜて食べると美味しい。マレーシアで食べられている米の性質が関係しているような気もするが、日本のチャーハンでも赤唐辛子を醤油に浸したもので、一度試してみたいと思う。

飲み物の注文に際し、食後ドリアンを食べるか否かイタチョウと常連客に聴いてみた。アルコール飲料とドリアンが体内で一緒になると死に至る場合もあるからだ。ドリアンを食べないということなのでビールを注文した。数年前、現地の友人から、お父さんがブランディーを飲んだ日にドリアンを食べて急死したという話を聞いたことがある。友人がドリアンを買って帰宅し家族全員で食べたら、お父さんの様子がおかしくなった。救急車で病院に運んだが翌日亡くなったという。調べてみたら、お父さんは昼間ブランディーを1本空けていたが、家族で誰もその事実を知らなかったということだ。

セオンが腕を振るい最初に出てきた蟹を食べながら、前日、日系スーパーで購入した米飯がまずかったので、マレーシアで食べる日本食の質を話題にした。「スーパーの惣菜コーナーで購入する米飯は美味しくない」と話の口火を切ったところ、イタチョウから「自分も到着直後、こちらで炊く米飯の味が悪い事に気づいた。いろいろ試行錯誤の末、炊き始めの水温が高いのが原因だと感じたので電気釜のスイッチを入れる前に水温が下がるよう氷を入れている」という極めて貴重なコメントを得た。美味しいご飯を炊き上げるため、日々研究を怠らない、職人の誇りというものを感じた。

発展するマレーシア

ここ数年、来る度にクアラ・ルンプールの街がめまぐるしく変化していることに気づいた。新しい道路が出来たり両側通行だったところが一方通行になったりしていて、駐在していたころはボルボを乗り回してどこにでも行くことができた私も、現在はハンドルを握る自信が全く無い。

昨年は、毎日、ドラゴン・フルーツとパパイヤの朝食を済ませると昔の競馬場跡地に建設されたツインタワーまでホテルから往復1時間の距離を散歩するのを日課とした。ツインタワーの裏側は公園になっていて、さまざまな樹木があたかも自然に生えていたかのごとく配置植樹されている。園内の樹木の傍にある英語とマレーシア語の説明版をいくつか読んでいて、いつの間にか1時間が過ぎているのに気づくこともあった。

公園を一周するように設けられているジョギング・コースを歩いているとき、私が2年間住んでいた「競馬」という意味の単語が名前に入っているコンドミニアムが間近に見えてきて急に懐かしさを感じた。しばし立ち止まって観察していると、公園に隣接する駐車場とコンドミニアムとの間には道路が新設されて、そこを自動車が行き交っていた。前には無かった光景だ。周囲の様子もすっかり変わっているので、その道路がどこへつながっているのか殆ど見当がつかなかった。

そこに昔あった競馬場で場外馬券を買ったことを思い出した。取引先のスタッフたちに「競馬に行こう」と誘われてついて来て、馬券を買ってからスタンドに上っていった。大勢の観客がいるのに、馬の姿がまったく無かった。「レースはシンガポールで行われている」という。そのうちに、場内のスピーカーから実況放送が聞こえてきた。レースが終わると周りの何人かが興奮していた。当たり馬券で大金(?)を稼いだようだ。コーラを仲間に奢っていた。

いつごろだったか明確な時期は分からないが、午後、大雨が降ったことがある。事務所からボルボを運転して「競馬」コンドミニアムへ向かった。普段30分くらいでつけるところだが、1時間半掛けてコンドミニアムから直線距離で百メートルくらいのところにたどり着いた。道路わきの大木が倒れ道をふさいでいたので、やむなくUターンして回り道した。交通渋滞のためさらに2時間ハンドルを握らざるを得なかった。交通渋滞のため帰宅時2~3時間、車の中にいたことは、わりかし頻繁に経験したと記憶している。

公園との往復ルート、ホテルのすぐ近く、大きなショッピングセンターが建立されている。ショッピングセンターから公園側の道路を跨ぐように歩道橋が造られ、歩道橋と公園につながる道路の間にはエスカレーターが備え付けられ、人は安全と思われるも意外と危険な横断歩道を歩かなくてもいいようになっている。私が駐在していたころは、そこに小学校があり、下校時に校門前を車で通過するのは大変だった。子供たちを迎えに来た親たちの車が列をなし、渋滞を惹起していた。また、大きなレストランがあった。何度か食事をしたことがあるが、一度も満足したことはなかった。料理の質が値段ほどではなかったからだ。美味しいものが食べられると期待していたのに、出てきた料理が美味しくなかったときの失望感は、どのように表現したらいいかわからない。

もっと信頼できたら

私は今でもマレーシアの銀行口座を維持し、マレーシアに永住する時期がいつ来てもいいように備えている。

昨年10月、ある買い物に関して現地銀行の小切手で支払ったところ、翌日その小切手は換金できなかったと言われた。直ちに銀行の窓口で調べたら「小切手の様式が変更され、お客様手持ちの小切手帳は現在使用できません。新しい小切手帳をご注文ください。この件に関しては半年前から毎月のステートメントに注記してあります」とのこと。最近のステートメントを読んでみたら確かにその旨注記してあった。普段、その注記の場所にはキャンペーンの案内が目立ち、マレーシアに住んでいない場合無意味との理解で、ここ数年ステートメントの注記は読んだことがなかった。

「注記を読まなかった自分も悪いが、このような重要な事項は別便で通知すべきだ」と同銀行の役員をしている日本人に苦情のメールを配信しておいた。日本人顧客からの苦情なので何がしかのアクションを起こしてくれるものと期待しているが、はたしていつ改善の動きが始まるか、今後見守って行きたい。

私は同銀行取扱の2種類のファンドにも投資している。数年前までファンド担当部門から半年ごとにステートメントが届き、自分の投資に関する現状が把握できていたが、ここ数年その報告を見たことがなかった。昨年、出発前に担当部門へ国際電話でステートメントが届いていない理由を聞いてみた。「本件、お客様の預金口座開設の支店取扱となっていますので、同支店に問い合わせてください」という答えだった。クアラ・ルンプール到着後、同支店の窓口で「当方では詳細を把握できません。本店の投資部門で聞いてみてください」と言われ、同支店前からタクシーで本店へ移動することとなった。

乗る前に運転手に料金を尋ねたら「メーターどおりです」との答え、当初から雲助タクシーと思い込んでいた己が恥ずかしい、マレーシアも変わったなと感じた。銀行本店7階の投資部門では15分ほど待たされた結果「1階のパーソナル・バンカーが担当するのでご案内します」と言われ、投資部門受付の女性が1階へ連れて行ってくれた。そこでようやく私の投資の現状が判明し、担当者が3つの約束をしてくれた。
(1) 2口のファンドに関しては、随時、残高をメールで連絡する。
(2) 別の資金運用先に関する情報を提供する。
(3) すべてのコレポン・アドレスを日本の住所に変更する。

しかし、この約束は昨年11月末時点で果たされていない。
この点については、そのうちに前出の日本人役員に直接協力をお願いすることになるかも知れない。何故なら、「焦るな、慌てるな、当てにするな、安心するな、諦めるな」というイスラム世界のビジネスに必要な五行がマレーシア社会にも適用できるような気がするからだ。

こちらの依頼案件は容易に引き受けてくれるが、なかなか実行されない。「あせるな、あわてるな」だ。痺れを切らして催促すると「今日やる」とか「明日やる」とか約束してくれる。しかし、その日になっても事態はまったく前進しない。再度、催促をするが、先方の返事と結果は変わらない。「当てにするな」だ。しぶとく何度か催促して、ようやく事態が前進するかのように感じるが、前進は無い。心強い返事をもらっても「安心するな」だ。その後も諦めることなく何度か催促しているうちに、ようやく実行される。「諦めるな」だ。五行が当てはまらないと推測される日本人なら遅滞なく問題を解決してくれるのではないかと期待している。

それでも私はマレーシアが好きだ、だからこの国にはいろいろな面でもっともっと発展してもらいたいと思っている。この国が発展するための必要条件は、まず国民一人一人が他人との約束を守ること、畢竟、時間を守ることだ。時間面でのルーズさは私が駐在していたころから改善されていない。他人を待たせることに少しも罪悪感を持たず、交通渋滞のせいにしてしまう。渋滞はいつでも起こりうるのだから、それを考慮し時間的余裕を持って出発するのが信用を得る第一歩だということに早く気づいて欲しい。今年9月の訪問時に少しでも改善の証が確認できればバグースだ。

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